絞り込み条件を変更する
検索条件を絞り込む

すべてのカテゴリ

1 件中 1 - 1 件表示
カバー画像

「見られている」のは錯覚かもしれない...。         

見られているのは、私たちではない。人の目を気にすること。これは日本人、というより東洋人に広く共有された自己の基盤だと思う。前回も述べたとおり心理学者のマーカスとキタヤマによれば、欧米に多い「独立的自己観」は自分の内側にある意志や特性を核に自己を定義する。一方、東アジア文化に根付く「相互依存的自己観」は他者との関係性の中でしか自己を成立させられない。だから「自分がどう感じるか」より「他者からどう見えるか」が先に立つ。ここまでは、よく語られる話だ。だが、ここに一つ、決定的な錯覚がある。実際のところ、他人はあなたのことなど大して見ていないのだ、と言うこと。「変に思われないか」「浮いていないか」...。そう気にしているのは、たいてい自分だけだ。周りの人間は自分自身のことで手一杯で、あなたの服装や振る舞いを、あなたが思っているほど注視も記憶もしていない。この「他人は見ていない」という傾向は、スマートフォンの登場でさらに極端になっているとも思う。電車に乗れば、乗客のほぼ全員が、下を向いてスマホの画面を見ている。街を歩いていても、ながらスマホの人だらけだ。人々の視線の先には、常にスマホがある。だとすれば、私たちが気にしている「人の目」は、実は存在しないどころか、そもそも別の場所、その四角い画面に向いているのかもしれない。見られていると思い込んでいる視線の先には、私たちではなく、スマホがあるだけなのだ。たくさんの実物を見ることで、選択眼は養われる。だが、スマホで流れてくるものは、少し違うのではないか。「処理水準効果」と言う考え方がある。深く関わった情報ほど記憶や判断に残り、受け流すだけの浅い処
0
1 件中 1 - 1