「見られている」のは錯覚かもしれない...。         

「見られている」のは錯覚かもしれない...。         

記事
美容・ファッション

見られているのは、私たちではない。


人の目を気にすること。

これは日本人、というより東洋人に広く共有された自己の基盤だと思う。

前回も述べたとおり心理学者のマーカスとキタヤマによれば、欧米に多い「独立的自己観」は自分の内側にある意志や特性を核に自己を定義する。一方、東アジア文化に根付く「相互依存的自己観」は他者との関係性の中でしか自己を成立させられない。だから「自分がどう感じるか」より「他者からどう見えるか」が先に立つ。ここまでは、よく語られる話だ。だが、ここに一つ、決定的な錯覚がある。

実際のところ、他人はあなたのことなど大して見ていないのだ、と言うこと。

「変に思われないか」「浮いていないか」...。そう気にしているのは、たいてい自分だけだ。周りの人間は自分自身のことで手一杯で、あなたの服装や振る舞いを、あなたが思っているほど注視も記憶もしていない。

この「他人は見ていない」という傾向は、スマートフォンの登場でさらに極端になっているとも思う。電車に乗れば、乗客のほぼ全員が、下を向いてスマホの画面を見ている。街を歩いていても、ながらスマホの人だらけだ。人々の視線の先には、常にスマホがある。だとすれば、私たちが気にしている「人の目」は、実は存在しないどころか、そもそも別の場所、その四角い画面に向いているのかもしれない。見られていると思い込んでいる視線の先には、私たちではなく、スマホがあるだけなのだ。

たくさんの実物を見ることで、選択眼は養われる。だが、スマホで流れてくるものは、少し違うのではないか。「処理水準効果」と言う考え方がある。深く関わった情報ほど記憶や判断に残り、受け流すだけの浅い処理では蓄積されない。スクロールの多くは後者に近く、アルゴリズムは好みそうなものばかりを見せてくる。情報量は増えても、選択眼を鍛える経験は減り、視野はむしろ狭くなっていくのかもしれない。

「他人は見ていない」。これは心理学的にも説明できる。コーネル大学のギロビッチとサヴィツキーの実験では、学生に少し恥ずかしいTシャツを着せて教室に入らせ、「何人が気づいたと思うか」を答えさせた。本人の予想は、実際に気づいた人数の約2倍にのぼった。これが「スポットライト効果」だ。人は自分自身にスポットライトを当てて生きているため、そのスポットライトが他人の視界にも同じ強さで当たっていると錯覚する。

相互依存的自己観を持つ人は、いつも「誰かに見られている」と感じやすい。でも、その視線は本当は他人のものではない。自分の中にいる、もう一人の「自分」が作り出した幻に過ぎない。つまり、自分が自分を見ている視線を、他人の視線だと勘違いしているだけなのだ。

同質化するファッション、置き去りにされる現場

この錯覚がもっとも色濃く出る舞台が、ファッションだと思う。

ファッション業界の同質化は、この構造の産物だ。ショップの内装も、ディスプレイも、SNSでの見せ方も驚くほど似通っている。作り手も消費者も「外れたら変に見られる」という想定のもと安全な選択を重ねた結果、業界全体が同じ顔になっていく。だが、その視線は多くの場合、実在しない。存在しない観客に向けて、無難という名の衣装を着せ続けている。

かつて私自身、デザインがコスト理由だけで却下される現場にいたことがある。あのとき現場を支配していたのもデザインが「外れることへの恐れ」だった。誰の視線を恐れていたのか、今振り返ると分からない。その時は、確か売場の要望...と言うような理由だったと記憶している。ただ、それはおそらく具体的な誰かではなく、想像上の「世間」という抽象的な観客だったのだと思う。

作る側と買う側の乖離は、ここに端を発しているのではないか。

「外れている」と判断されたものが、実際には消費者が求めていたもの、というケースを何度も見てきた。作り手が恐れていた視線と、消費者の感覚はズレている。消費者はすでに自己編集する力を持っているのに、作り手の判断基準のほうが遅れているのかもしれない。消費者の方が進んでいる、と思う場面は何度もある。付加価値だ、ブランディングだと大層な言葉を並べながら、実際にやっていることは、無難であることの繰り返しでしかない場合が多い。個性を削っているのは、消費者ではなく作り手自身なのだと思う。

オーラの正体と、自己編集という答え

街ですれ違う瞬間にハッとする女性がいる。私が人を注視してしまうのは、ファッションの仕事を長くしてきた職業病かもしれない。電車でも、街中でも、常に人を見ている。

話を元に戻すと、街中で見たその人は、ブランドを全身に纏っているわけでも、トレンドを完璧に押さえているわけでもない。ただ一点、際立ったものがある。あるいは服そのものというより、その人自身から滲み出るオーラのようなものがある。

これは何なのか。カール・ロジャースの「一致(congruence)」に近い状態だと思う。本当に感じていること、なりたい自分、実際に見せている姿。この三つにズレがない人は、他者からどう見えるかではなく、自分の内側の価値観に沿って選択している。だからこそ、その迷いのなさが「オーラ」として伝わるのではないか。

その一致にたどり着く方法が、結局は自己編集なのだと思う。他者の視線という幻影を手放し、内側の基準と選択を揃えていく作業。オーラとは才能ではなく、その積み重ねの結果なのかもしれない。

だとすれば、答えは単純だ。

想像上の観客に配慮するのをやめて、自分自身の内的な基準で自分を編集し直せばいい。他者の視線という不確かな前提の上に自分を築くことをやめ、自分が本当に良いと思うものを選び直す作業。「自己編集」とは、自分がどうありたいかを起点に服も生き方も選び直すことだと思う。

しかし、実はこの一致が本当に求められているのは、消費者以上に作り手側なのだと思う。想像上の視線に怯えるのをやめ、内的基準で作ること...それは「売れそうか」より先に「自分はこれが好きか、良いと思うか」を自分に聞き、周りに合わせて選ぶのをやめて、自分の感覚を一番の判断材料にすることだ。

それができていないのは、いつも作り手の方なのではないか、とふと思う。










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