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私だけ、時間が止まっていた

昨日、地元の経営者仲間が飲みに来てくれました。高校の3つ下の彼は、経営者でありながらジュニアバレーボールの監督もしています。今年、全国大会出場が決まったそうです。その話を聞いて、私も娘がジュニアバレーをしていた頃を思い出しました。当時は、2カ月に一度ほど東京や富山への遠征があり、会社のマイクロバスで送迎していました。高速代もガソリン代も駐車場代も、すべて自腹でした。父親らしいことを、あまりしてこなかったと思っていたので、せめてその時間だけは娘を精一杯応援したかったのです。全国大会にはあと一歩届きませんでしたが、今でも大切な思い出です。その後、娘は勉強を優先し、バレーボールから離れました。そして昨年、大学で留年しました。特待生として入学したため、学費の減免や奨学金など、およそ900万円分の支援を受けられなくなりました。年末に帰省した娘は、きっと叱られると思っていたのでしょう。でも私は、「何とかする。」とだけ伝えました。翌月、改めて今後のことを話し合ったとき、娘がこんなことを言いました。「父さんの中で、私はバレーをやっていた頃のままみたいだけど、私も成長しているから、ちゃんと叱ってほしい。」私は、その言葉にハッとしました。親は子どもの成長を見ているつもりでも、心のどこかでは、一番思い出の強い頃の姿のまま、時間が止まっているのかもしれません。子どもは、親が思っている以上に成長しています。昨日、全国大会出場の話を聞いて、そのことを改めて思い出しました。私だけ、時間が止まっていたのかもしれません。ブログを読んでいただきありがとうございます。私は現在も飲食店経営に携わっています。利益改善の
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私は、役員報酬を15万円にした。 ― 社長だけが豊かになる会社にはしたくなかった。―

私は、社長になってから、役員報酬を15万円にしていました。景気が良かった時だけ、一時的に40万円にしたことはあります。でも、それも三年ほどでした。会社の業績が変われば、役員報酬も見直しました。最終的には、13万円になりました。私は、社長だからといって、最初に利益を受け取るべきだとは、思っていませんでした。利益が出たら、まず、スタッフです。会社です。設備投資です。福利厚生です。そして、最後が社長でした。スタッフにも、よく話していました。「社長が給料をもらうのは、一番最後だから。」それが、私の経営の考え方でした。もちろん、役員報酬だけで生活していた訳ではありません。会社へ貸していたお金があり、会社の状況を見ながら、返済を受けることもありました。会社が苦しい時には、メインバンクから、会社へ貸したお金を免除する提案も受けました。でも、それでは、私自身の生活が成り立ちません。相談した結果、貸付金は残し、役員報酬を13万円にすることで、会社を続ける道を選びました。私は、我慢したかった訳ではありません。貧乏でいたかった訳でもありません。必要な時には、欲しい物も買いました。投資もしました。ただ、私には、利益には順番があると思っていました。大切なのは、「いくら受け取るか。」ではありません。「利益を、誰から先に使うか。」でした。私は、会社の利益は、社長一人が受け取るものではないと思っていました。現場で働くスタッフがいて、会社が成長し、利益が生まれる。だから、その利益は、まず会社を支える人へ返したい。そう考えていました。スタッフと会社が成長すれば、その成果は、必ず社長にも返ってくる。私は、そう信じて
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アオのブログ「主人は何故、拭くのか!にゃ」

ニャ〜オ!アオにゃ!🐾今日は、主人の不思議な行動を見つけたにゃ。主人が、真っ白なタオルを持ってきたにゃ。何をするのかと思って、アオは近くで見ていたにゃ。テーブルを拭くのかにゃ?お皿を拭くのかにゃ?包丁を磨くのかにゃ?違ったにゃ。主人は、何かを一本ずつ、とても丁寧に拭いていたにゃ。しばらくすると、主人が、「見てみろ。」と言って、タオルを見せてきたにゃ。真っ白だったタオルは、びっくりするくらい汚れていたにゃ。アオは、「換気扇でも掃除したのかにゃ?」と思ったにゃ。でも違ったにゃ。主人は、「証拠を押さえたぞ。」と言ってきたにゃ🐾アオは、写真を見てびっくりしたにゃ。主人が拭いていたのは…たった3本の、長ネギだったにゃ。主人は、当たり前のように、長ネギを一本ずつ拭いていたにゃ。そして、急にアオに聞いてきたにゃ。「普通の人って、長ネギを拭くのかな?」アオは猫だから、長ネギは食べないにゃ。だから、拭くものなのか、拭かないものなのかも分からないにゃ。でも主人を見ていて思うことがあるにゃ。主人は、「自分が正しい。」とは、あまり言わないにゃ。それよりも、「これって、みんなも同じなのかな?」と考えることが多いにゃ。だから、ブログを書くんだと思うにゃ。答えを教えたいんじゃないにゃ。自分では当たり前だったことが、本当に当たり前なのか、みんなに聞いてみたいんだにゃ🐾🐾アオ日記アオは、長ネギは拭かなくてもいいから、主人に聞きたいにゃ。チュールの袋は、いつ開けるにゃ?🐾■関連ブログ◆飲食店の利益改善について相談したい方はこちら◆経営不振や資金繰りでお悩みの方はこちら
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私は、利益をスタッフへ還元した。  ― 利益は、会社だけのものではない。―

私は38年間、飲食業に携わってきました。会社は、利益を残さなければ続きません。だから、利益を追いかけることは、経営者の大切な仕事です。でも私は、利益を、会社だけのものだとは考えていませんでした。利益を生み出したのは、現場で働くスタッフだからです。だから私は、利益が残った時は、できるだけスタッフへ還元する仕組みを作りました。歩合手当です。ただ売上が増えたから、全員へ配る仕組みではありません。私は、前年と比較して改善した結果だけを、還元対象にしました。例えば、水道光熱費。売上。客単価。人件費。仕入れ原価。前年より改善した分の一部を、スタッフへ還元しました。利益を増やすことだけが目的ではありません。会社を良くする行動が、自分たちにも返ってくる。それを知ってほしかったのです。すると、少しずつ、現場が変わり始めました。「昼間の掃除だけなのに、エアコンも照明も全部つける必要ある?」そんな声が、スタッフから自然に出るようになりました。水の使い方も、電気の使い方も、誰かに言われる前に、自分たちで考えるようになりました。私は、節約を教えたかったわけではありません。会社のお金を、自分事として考えてほしかったのです。もちろん、還元はお金だけではありませんでした。私は、スタッフが他の飲食店で食事をした費用も、会社で負担していました。繁盛店へ勉強に行くスタッフもいれば、家族と外食へ行くスタッフもいました。飲食店で働く人は、世間が休んでいる時間に働きます。家族との時間が取りづらい仕事だからこそ、その時間も、会社が応援したいと思いました。学ぶことも、家族との時間も、未来への投資だと思っていたからです。私は、
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私は、一時間以上涙が止まらなかった。 ~「こっからだよ。」という一言。~

先日、テレビで「オモウマい店」を見ていました。能登のお寿司屋さんの特集です。19年前の今日。私は、新潟県中越沖地震を経験しました。だからでしょうか。私は、番組が終わるまで、一時間以上、涙が止まりませんでした。最初に涙が出たのは、店主の言葉ではありません。能登の、ひび割れた道路を見た瞬間でした。私は新潟県柏崎市で、二度の震災を経験しています。だから、あの道路を見ただけで、私は、自分の過去を思い出していました。番組の中で、店主は少しずつ店を掃除していました。そして、最後は店の外の戸です。その瞬間、私は思いました。「もうすぐ営業再開なんだ。」私も、同じように掃除をしていたからです。自己破産後、営業を再開するまでの約三か月。八月の暑い日から、私は毎日店へ通いました。最初は店の中です。目につくものを、一つずつ掃除していきました。長年の油煙でベタついた椅子を磨きながら、止まっていた時間の長さを感じました。営業再開が近づくと、掃除は店の外へ移っていきました。入口の戸。お客様を迎える場所です。テレビの店主が、その戸を掃除し始めた瞬間、あの日の自分と、まったく同じでした。営業を再開した日、お客様から、「待ってたよ。」と言われました。その時、私は初めて気付きました。待っていてくれた人がいた。掃除をしている時、「再開するの?」と声を掛けてくれた人もいました。営業再開後には、「ずっと見てました。」と言ってくださった方もいました。人は、見ていないようで、ちゃんと見てくれていました。その時は気付かなくても、あとになって分かることがあります。番組の最後、店主は静かに言いました。「こっからだよ。」その一言に、
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アオのブログ「主人は何故、上を見たのか!にゃ」

ニャ〜オ!アオにゃ!🐾今日は、主人が、急に天井を見上げていたにゃ。何かいるのかにゃ?虫かにゃ?クモかにゃ?アオも見上げたけど、何も見えなかったにゃ。主人のいる部屋は、天井の一部が、ずっと開いたままになっているにゃ。昔、工事をした時に、天井を壊さないと、できなかったらしいにゃ。あとで直す予定だったらしいけど……今も、そのままにゃ。主人らしいにゃ🐾でも、主人が天井を見上げるようになったのには、理由があるにゃ。3週間くらい前のことにゃ。主人は、いつものように、パソコンの前で、あぐらをかいていたにゃ。その時だったにゃ。「ボトッ。」何かが落ちてきたにゃ。主人は、股のあたりに、何かが当たったような気がしたらしいにゃ。下を見たにゃ。何もいないにゃ。片足を上げてみたにゃ。何もいないにゃ。反対の足も上げてみたにゃ。やっぱり、何もいないにゃ。主人は、「???」となったらしいにゃ。そして、立ち上がったにゃ。すると……主人が座っていたところから、何かが、ヨチヨチ歩き始めたにゃ。小さなネズミだったにゃ🐭主人も、さすがに驚いたらしいにゃ。捕まえようとも思ったらしいけど、噛まれるのも嫌だから、そのままにしたらしいにゃ。後日、「トイレで干からびてましたよ。」と聞いたらしいにゃ。かわいそうだけど、アオは思ったにゃ。主人の股の間に落ちるなんて、ずいぶん着地場所を間違えたネズミさんにゃ🐾ところが、話はこれで終わらなかったにゃ。それから約3週間。主人が、またパソコンの前にいた時だったにゃ。今度は主人の目の前で、天井から、何かが落ちてきたにゃ。「ボトッ。」主人は、今度はすぐに分かったにゃ。「またネズミだ!」にゃ🐭一度経
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私は、残りの時間の使い方を変えた。 ― お金は増やせても、時間は増やせない。―

私は、長い間、会社に多くの時間を使ってきました。多店舗展開していた頃は、一日のほとんどが、仕事でした。通常でも、一日16時間ほど、会社のために時間を使っていました。忙しい時には、朝4時に自宅を出て、ハードな仕込みを始める。そして、自宅へ帰る頃には、日付が変わっている。そんな生活を、数か月続けたこともあります。その頃の写真を見ると、痩せたというより、やつれていました。それでも、頭の中から、仕事が消えることはありませんでした。寝ている時に、仕事のアイデアを夢で見て、目が覚めたら、そのアイデアを形にする。今振り返れば、起きている時間だけではなく、寝ている時間まで、会社に使っていたのかもしれません。でも、当時の私は、それを特別なことだとは思っていませんでした。経営者なのだから、当然だと思っていました。社員が一度に辞めれば、誰かが、その穴を埋めなければなりません。店は、「人がいないから。」という理由で、簡単に止めることはできません。だったら、最後に穴を埋めるのは、経営者である自分です。私は、今でも、その考え方は変わっていません。経営者には、逃げられない責任があります。だから、昔の自分の働き方を、間違っていたとは思いません。必要だった時期も、あったと思っています。でも、自己破産をして、私の考え方は変わりました。会社も、店も、いろいろなものを失いました。そして、初めて強く意識しました。自分に残された時間は、有限なんだ。ということを。お金は、なくなっても、また稼ぐことができます。店も、なくなっても、もう一度始めることができます。実際に私は、もう一度、営業を再開しました。一度失った自宅や店を、買
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私は、自分を成功者だと思ったことがない。 ― 人生の答えは、途中では分からない。―

「成功者ですね。」そう言われたことはあります。会社を経営して、店舗を増やして、40歳までに10店舗という目標も達成しました。欲しいものも買いました。車も、旅行も、ある程度、やりたいことはやってきました。でも、私は一度も、自分を成功者だと思ったことはありません。なぜなら、人生はまだ、途中だからです。私は、飲食店を経営しています。新しく店を出して、一年目から行列ができた。売上もいい。利益も出ている。それを見て、「儲かっている店ですね。」と言う人がいます。でも、私は少し違う見方をします。例えば、店を作るために、大きなお金を投資していたとします。一年目に利益が出ても、二年目に利益が出ても、まだ、投資した金額を回収できていない。それなら、繁盛している店ではあっても、まだ、「儲かった店」ではありません。投資した金額を回収して、その先に、お金が残って、初めて、「儲かった。」と言える。私は、そう考えます。人生も、少し似ている気がします。今、お金を持っている。会社がうまくいっている。良い車に乗っている。立派な家に住んでいる。そこだけを切り取れば、成功しているように見えるかもしれません。でも、その先は、誰にも分かりません。私自身、会社を大きくした後に、すべてを手放しました。自己破産も経験しました。だから、今が順調だからといって、人生そのものを、「成功した。」とは、私は言えません。逆に、自己破産したからといって、自分の人生を、「失敗した。」とも思っていません。まだ、途中だからです。昔の私は、見栄もありました。会社を大きくする。店舗を増やす。良い車に乗る。人から、どう見られるのか。そんなことにも、今よ
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私は、存在しない人材を探していた。 ― 努力ではなく、探す方向を間違えていた。―

私は、会社を大きくしたいと思っていました。そのためには、優秀な人材が必要だと信じていました。だから、採用しました。育てました。評価制度も作りました。給与も上げました。社員旅行にも行きました。海外にも連れて行きました。飲食店巡りの費用も、会社で負担しました。成長できる環境は、誰にも負けないくらい、用意したつもりでした。でも、ある日、一番の右腕が、会社を辞めました。義理の弟でした。そして、独立しました。昨日まで、同じ会社で、同じ方向を向いていた人が、突然、ライバルになりました。私は、裏切られたとは思いませんでした。ただ、考え続けました。何が悪かったのだろう。私の育て方か。会社の仕組みか。待遇か。もっと何か、できたのではないか。何年も、答えを探し続けました。そして私は、次の「優秀な人」を探しました。仕事ができる人。向上心がある人。責任感がある人。会社のことを考えられる人。そんな人と出会えれば、会社はもっと成長できる。そう信じていました。でも、なかなか見つかりません。見つからないほど、私は焦りました。もっと採用しなければ。もっと育てなければ。もっと良い会社にしなければ。そう考え、努力を続けました。でも、ある時、ようやく気付きました。私は、存在しない人材を探していたのです。仕事ができる。向上心がある。責任感がある。でも、独立しない。欲がない。ずっと、私の会社にいてくれる。そんな人を、私は探していました。よく考えれば、おかしな話です。本当に優秀な人なら、もっと挑戦したいと思うかもしれません。もっと評価されたいと思うかもしれません。もっと収入を増やしたいと思うかもしれません。自分で会社をやり
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私は、「こっからだよ。」という言葉で前を向いた。 ~人生は、何度でもやり直せる。~

ある日、テレビで、能登半島地震の特集を見ていました。被災したお寿司屋さんが、営業再開へ向けて、店を掃除している姿が映っていました。その瞬間、私の記憶は、一気に過去へ戻りました。2004年の中越地震。そして、2007年の中越沖地震。あの日、私が見た景色。感じた恐怖。避難所へ届けた豚汁。毎日握り続けたおにぎり。すべてが、昨日のことのようによみがえりました。私は、テレビを見ながら、一時間以上、涙が止まりませんでした。番組の途中で、店主は息子さんへ、こう言いました。「こっからだよ。」その言葉を聞いた瞬間、さらに涙があふれました。番組が終わり、テレビを消しても、しばらく動くことができませんでした。静かな部屋で、ただ、これまでの人生を思い返していました。震災。自己破産。そして、もう一度、店の暖簾を掲げるために、店を掃除した日。どれも、決して簡単な道ではありませんでした。でも、振り返ってみると、私は、そのたびに、立ち上がってきました。もちろん、一人ではありません。家族。仲間。お客様。多くの人に支えられて、ここまで来ることができました。だから、あの店主の「こっからだよ。」という言葉は、テレビの中だけの言葉ではありませんでした。私自身へ向けられた言葉でもありました。そして今も、私の中で生き続けています。これから先も、私の背中を押してくれる、大切な言葉なのだと思います。これから先も、思うようにいかない日があるでしょう。失敗することも、あるでしょう。でも、そのたびに、私は、あの言葉を思い出します。「こっからだよ。」もし今、このブログを読んでいるあなたが、苦しみの中にいるなら。焦らなくていい。人生は、
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私は、自己破産を選んだ。 ― 逃げたのではない。人生を作り直すためだった。―

私は、自己破産を選びました。「自己破産」この言葉に、良いイメージを持つ人は、少ないと思います。私も、そうでした。だからこそ、最後まで悩みました。一番気がかりだったのは、スタッフのことです。私が決断すれば、働く場所を失う人がいます。生活が変わる人もいます。それを考えると、簡単には決断できませんでした。でも、現実は待ってくれません。私は、コロナは半年ほどで落ち着くだろうと思っていました。しかし、現実は違いました。半年が過ぎても、終わる気配はありません。私は、その時に悟りました。このままでは、会社を延命しているだけだと。民事再生も考えました。いろいろな道を検討しました。でも、私が選んだのは、自己破産でした。理由は、もう一度、人生を作り直したかったからです。中途半端に続けるより、ゼロから、もう一度やり直したい。そう思いました。破産申立開始決定の前日、私は、スタッフへ伝えました。明日から、会社は新しい段階へ進むこと。そして、今まで支えてくれたことへの感謝を。その時、あるスタッフが、私に言ってくれました。「最後までありがとうございました。」その言葉は、今でも忘れられません。自己破産を決断した瞬間、私のストレスは、ゼロになりました。苦しかったのは、自己破産した後ではありません。決断できず、延命していた時間でした。今、あの頃の自分に、一つだけ伝えられることがあります。「あと三〜五年、早く決断しろ。」そう伝えます。理由は、一つです。苦しみは短く。楽しさは長く。決断を先延ばしにした時間は、誰も幸せにしませんでした。もっと早く現実を受け入れていれば、もっと早く、次の人生を歩き始められたと思っています
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私は、失敗を公開した。 ― 失敗は、誰かの役に立った時、経験に変わる。―

私は、昨年12月、自分の失敗を公開することに決めました。自己破産したこと。経営に失敗したこと。すべてを、隠さず伝えることにしました。不思議と、怖さはありませんでした。営業を再開して、四年。おかげさまで、店も落ち着き、平和な日々を送れるようになりました。そして、私の中で、次のステージが見え始めました。婚活。講演。書籍。コンサルティング。私は、過去を隠したまま、未来へ進みたいとは思いませんでした。婚活を始める時も、娘へ相談しました。賛同をもらい、前へ進む決心ができました。もちろん、反対されることもあるかもしれません。でも、私は、自分で決めたことには、覚悟を持って進みます。子どもが二十歳になるまで、再婚しなかったのも、私なりの覚悟でした。誰かに決めてもらう人生ではなく、自分で決めた人生を歩みたい。そう思ってきました。だから、失敗を公開することも、私自身が決めました。私は、失敗を自慢したい訳ではありません。むしろ、恥ずかしいことは、たくさんあります。体重が100kgを超えたことも、私にとっては、恥ずかしい経験でした。でも、今は思います。恥ずかしい経験ほど、誰かの役に立つことがある。私は、もし破産を認めず、延命する道を選んでいたら、今でも地獄のような毎日を送っていたと思います。現実を受け入れたから、再び前を向くことができました。だから、私は、失敗を隠すことをやめました。公開してから、同じような悩みを抱えた方から、相談をいただくようになりました。「あの時、公開してよかった。」そう思えた瞬間でした。私が目指しているのは、「破産した経営者」ではありません。「破産から再起した経営者」でもありませ
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私は、数字を隠さなかった。 ― 数字は、会社の現在地を教えてくれる。―

私は、数字を隠さなかった。― 数字は、会社の現在地を教えてくれる。―私は38年間、飲食業に携わってきました。社員会議では、各店舗の店長が、自分の店舗の数字を発表していました。売上。原価。人件費。水道光熱費。利益。店舗ごとの損益も、そのまま公開していました。「そこまで見せなくてもいい。」そう言われたこともあります。私は、「そうなんだ。」と思うだけでした。私は、数字を隠す理由が、分からなかったのです。数字は、人を責めるためにあるものではありません。会社の現在地を、教えてくれるものです。例えば、昨年と同じ売上だったとします。電気料金も、値上がりしていません。それなのに、水道光熱費だけが増えていたら、私は考えます。昨年のスタッフのレベルが高かったのか。今年のやり方に、改善点があるのか。数字は、答えまでは教えてくれません。でも、「何かが変わった。」という事実は教えてくれます。だから私は、数字から目を背けませんでした。私は、赤字だから悪い、黒字だから良い、そんな見方もしませんでした。赤字でも、前年より改善していれば、会社は成長しています。逆に、利益が出ていても、前年より悪くなっていれば、そこには課題があります。私が見ていたのは、黒字か赤字かではありません。昨日より成長しているか。それだけでした。会社の経営理念は、「共に成長」です。スタッフと。お客様と。取引業者さんと。会社に関わる皆さんと、一緒に成長したい。そんな想いを込めていました。だから、数字も競争のためではありません。誰かを責めるためでもありません。一年前の自分たちより、一歩でも前へ進めたか。それを確認するための、大切な指標でした。私
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私は、入店初日に未来を見せた。 ― 人は、未来が見える会社で働きたくなる。―

私は、新人スタッフに、雇用通知書だけを渡すことはありませんでした。入店説明では、雇用通知書。役職階級表。成長シート。利益還元制度。相談窓口。会社の考え方。一つずつ説明し、最後に体験入店をしてもらいました。そして、初出勤日を決めていました。私は、「これが、うちのやり方です。」そう伝えていました。なぜ、そこまで説明したのか。理由は、私自身が、東京で働いていた頃の経験にあります。当時の私は、分からないことだらけでした。誰に相談すればいいのか。何を頑張れば評価されるのか。店長に聞けばいいのか。本社へ相談すればいいのか。そんな不安を抱えながら、仕事をしていました。だから私は、同じ思いを、自分の会社のスタッフには、させたくありませんでした。入店説明では、仕事を教える前に、会社を知ってもらいました。この会社では、何をすると評価されるのか。どうすれば時給が上がるのか。どこまで成長できるのか。困った時は、誰に相談すればいいのか。店長への相談。本社への相談。給与のこと。人間関係のこと。相談先も、最初に説明しました。そして、店長によって、説明に差が出ないよう、確認書類を作りました。一つ説明するたびに、チェックを入れ、最後は、新人スタッフ本人の署名をもらい、本社へ提出しました。「説明したつもり。」そんな言葉では、済ませたくなかったからです。また、説明が終わっても、すぐに初出勤ではありません。一度、体験入店をしてもらいました。実際に働くスタッフを見て、お店の雰囲気を感じてもらう。「思っていた会社と違った。」そんな理由で、すぐに辞めてしまう人を、減らしたかったのです。会社が、スタッフを選ぶだけではありませ
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私は、800個のおにぎりを握った。 ~「ともちゃん、どこまでできる?」~

2007年7月16日。午前10時13分。新潟県中越沖地震が発生しました。私は、深夜の営業を終え、眠っていました。突然、大きなタンスが、私の上へ倒れてきました。慌てて、タンスを押しのけ、裸足のまま外へ飛び出しました。気が付くと、足から血が流れていました。でも、そんなことは、どうでもよかったのです。私は、すぐに車へ乗り込み、店の様子を見に向かいました。途中で見た光景は、今でも忘れられません。家は、まるで紙で作ったように、ぺしゃんこになっていました。マンホールは、人の背丈より高く、地面から飛び出しています。別の店舗へ入ると、棚から落ちた焼酎の瓶が割れ、店の中は、息ができないほど、アルコールの臭いが充満していました。「またか…。」そう思いました。三年前の、中越地震が頭をよぎりました。翌日、村長から連絡が入り、私は村長室へ向かいました。そこには、東京電力柏崎刈羽原子力発電所へ、お弁当を納めていた会社の方もいました。村長は、その方へ、「どこまで対応できますか?」と尋ねました。でも、すぐには答えが出ませんでした。すると、村長は、私を見て、こう言いました。「ともちゃん、どこまでできる?」村長は、2,000個のおにぎりを希望していました。私は、「800個ならできます。」と答えました。店で一番大きな炊飯器は、二升炊きです。一度に炊ける量。握る時間。働く人数。すべてを計算すると、一日800個が限界でした。できない約束は、したくありませんでした。柏崎の本社で、ご飯を炊き、刈羽店で、私、社員、アルバイトが、握る担当、包装する担当に分かれ、塩おにぎりを作りました。最初の一週間は、毎日800個。その後は、避
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私は、自宅と店を買い戻した。 ― 失ったものではなく、未来を取り戻したかった。―

私は、自宅と店を買い戻した。― 失ったものではなく、未来を取り戻したかった。―私は、自己破産をしました。会社も、自宅も、店も失いました。でも、不思議と、そこで人生が終わったとは思いませんでした。むしろ、「ここからだ。」そう思っていました。営業を再開するきっかけは、娘でした。中高一貫校の五年生になった頃、娘が、「本気で薬学部を目指したい。」そう話してくれました。その言葉を聞いた時、私は思いました。まだリタイアするには早い。もう一度、働こう。もう一度、挑戦しよう。そう決めました。店舗を買い戻したのは、昔の店に戻りたかったからではありません。娘の夢を応援するためには、自分で店をやることが、一番現実的だと思ったからです。私は、八月から店の掃除を始めました。営業を再開しようと思えば、途中でも再開できました。でも、私は急ぎませんでした。自分が納得した状態で、再び暖簾を出したかったからです。今まで手が届かなかった場所まで、徹底的に掃除しました。厨房も。内装も。壁紙も。テレビも。エアコンも。そして、油煙でベタベタになったカウンターの椅子も、一脚ずつ磨きました。店を磨いていたのではありません。もう一度、自分の人生を磨いていたのだと思います。店名は変えませんでした。でも、電話番号は変えました。メニューも、一から考え直しました。私は、誰かがいなければ営業できない店には、したくありませんでした。だから、自分一人でも営業できるよう、オペレーションを見直しました。自分一人の結果なら、言い訳はできません。だからこそ、改善も、工夫も、すべて自分の責任になります。二階には、三十畳と十五畳ほどの宴会場があります。
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私は、平等に審査し、不平等に差を付けた。― 平等と公平は、同じではない。―

私は38年間、飲食業に携わってきました。スタッフを評価する時、私が一番気を付けていたことがあります。それは、好き嫌いで評価しないことです。過去には、こんな言葉を聞いたことがあります。「なんで、あの人が正社員なんですか。」「あの人が辞めないなら、私が辞めます。」仕事に対する不満ではありません。評価に対する不満でした。私は、理不尽な会社にはしたくありませんでした。だから、評価基準を見えるようにしました。役職階級も見えるようにしました。何を頑張れば評価されるのか。何ができれば昇格できるのか。誰が見ても分かるようにしました。そうすると、社長に気に入られることよりも、仕事を覚えることに目が向くようになります。私は、人間関係で差が付く会社ではなく、努力で差が付く会社を作りたかったのです。だから、私は、平等に審査しました。しかし、結果まで平等にはしませんでした。努力した人。成長した人。会社へ貢献した人。その人たちは、評価されるべきだと思っていました。逆に、何もしなかった人まで、同じ評価にすることは、頑張っている人に失礼です。私は、全員を同じにしたかった訳ではありません。頑張る人が、報われる会社にしたかったのです。だから、私は、平等に審査し、不平等に差を付けました。学生だから。アルバイトだから。正社員だから。そんな肩書きでは評価しません。学生でも、正社員以上に活躍している人は、時間給が高くても当然だと思っていました。評価するのは、雇用形態ではありません。仕事です。努力です。成長です。だから私は、平等に審査し、不平等に差を付けました。それが、頑張る人を守ることだと、今でも思っています。🐾アオ日記
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娘が私の恋愛の先生になった日

昨年まで、私は再婚する気はありませんでした。「自由と引き換えになるのではないか。」そんな考えが、どこかにあったからです。でも、店に来てくださる常連さんを見ているうちに、「こんな幸せの形もあるんだな。」そう思うようになりました。そして、自分自身も、これからの人生について考えるようになったのです。とはいえ、婚活を始めるには、一つ気になることがありました。娘は、どう思うだろう。昨年末、私は娘に聞きました。「婚活アプリに登録しようと思うんだけど、どう思う?嫌かな?」少し緊張しながら聞いたことを覚えています。返ってきた言葉は、私の予想とは違いました。「一緒に住んでいた頃だったら少し複雑だったかもしれないけど、今は大学生活を送っているし、父さんがこれからの幸せを考えることは、私は良いと思うよ。」その一言で、心が軽くなりました。婚活を始めてからも、娘はプロフィール写真や自己紹介文について、いろいろアドバイスをくれました。「この写真の方が自然だよ。」「この表情の方が父さんらしい。」親が子どもに教えるものだと思っていました。でも、気が付けば、私は娘から恋愛を教わっていました。恋愛だけは昔から苦手です。仕事なら努力で何とかできる。自己破産からの再起も、行動して乗り越えてきました。でも恋愛だけは、一人ではどうにもならないことがあります。そんな私に、一番近くで背中を押してくれたのは娘でした。まさか娘と恋愛の話をする日が来るなんて、昔の私は想像もしていませんでした。親子の立場は変わらなくても、教える側と教わる側は、時々入れ替わるものなのかもしれません。今、私の恋愛相談の一番の先生は、娘です。ブログを読ん
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私は、人生の途中で「失敗」と決めることをやめた。 ― 挑戦の意味は、あとから分かることもある。―

「失敗を恐れず、挑戦しよう。」よく聞く言葉です。私は、少し違う考え方をしています。そもそも、失敗って、何でしょう。もちろん、取り返すことのできない失敗もあります。でも、私たちが日常で、「失敗した。」と呼んでいることの多くは、本当に、失敗なのでしょうか。私は、経験だと思っています。だから、何かをやってみたいと思った時、損か得かを、あまり考えません。周囲にも、ほとんど聞きません。「どう思う?」「やった方がいいかな?」そう聞いている時点で、やらない理由を、誰かに探してもらっているようなものです。自分が、やってみたい。だったら、まず、やってみればいい。私にとっては、それだけで十分です。「なぜ、それが好きなの?」と聞かれても、答えられないことがあります。好きだから、好き。それと同じです。やってみたいから、やる。挑戦する理由なんて、それくらいでいいと思っています。そんな私に、「人生で、挑戦して良かったことは?」と聞かれたら、いくつかあります。飲食業に携わり続けたこと。子どもの進学を応援したこと。そして、少し意外かもしれませんが、自己破産です。もちろん、自己破産した時に、「良い挑戦をした。」なんて思った訳ではありません。むしろ、逆です。あれは、失う決断でした。会社を失う。積み上げてきたものを失う。自分の人生の一部を、自分で終わらせる決断でした。その後、私は、しばらく何もやる気が起きませんでした。何もしない。でも、食べる。体重だけが、どんどん増えていきました。その頃の私に、「あの自己破産は、いつか良い経験になるよ。」と言っても、きっと、信じなかったと思います。でも、人生をもう一度歩き始めて、店
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私は、感謝を仕組みにすることをやめた。 ― 心が動かなければ、感謝は生まれない。―

私は以前、「ありがとう」を伝え合うアプリを導入しました。同じ店舗のスタッフだけではありません。別の店舗。本社。社長。誰にでも、感謝のメッセージを送ることができる仕組みでした。メッセージを送ると、「ありがとう」が積み重なります。多くの「ありがとう」を集めたスタッフは表彰され、貯まったポイントは、商品券などと交換できました。私は、この仕組みに期待していました。店舗が違えば、普段は会うこともありません。でも、「こんなスタッフも頑張っているんだ。」「自分だけが悩んでいる訳じゃないんだ。」そんなことを知るきっかけになれば、会社全体が、もっと一つになれると思ったのです。私自身も、本社や現場で、どんな仕事をしているのか。スタッフに知ってもらいたい気持ちもありました。最初は、とても良い仕組みでした。「ありがとう。」その言葉が、会社の中を行き交いました。しかし、一年半ほど続けるうちに、少しずつ違和感を覚えるようになりました。感謝を伝えるためではなく、ポイントを集めるために、「ありがとう」を送る人が増えてきたのです。本当に感謝しているからではなく、とりあえず送る。送らないよりは送っておく。そんな空気を感じるようになりました。私は、その時、気付きました。これは、私が伝えたかった「ありがとう」ではありません。コンビニのレジで、「ありがとうございました。」と言われるように、言葉だけが残り、気持ちが置いていかれてしまったように感じたのです。もちろん、その言葉を否定したい訳ではありません。言葉にしなければ、伝わらないこともあります。だから、伝えたい時は、ちゃんと言葉にすればいい。でも、感謝は、言葉だけではあ
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私は、役職階級を見えるようにした。 ― ゴールが見えると、人は成長する。―

私は38年間、飲食業に携わってきました。以前、スタッフを評価するために、「優秀の基準」を作ったことをご紹介しました。しかし、評価基準だけでは、人は成長できません。なぜなら、ゴールが見えないからです。私は、役職階級を見えるようにしました。何を頑張れば、次の役職へ進めるのか。その道筋を、入店したその日から、全員へ渡していました。見せるだけではありません。雇用通知書と一緒に、役職階級一覧を手渡していました。「この会社では、ここまで成長できます。」私は、そんな未来を、最初に伝えたかったのです。研修生には、何を覚えれば試用期間が終わるのか。パート・アルバイトには、次は何を覚えればリーダーになれるのか。正社員には、主任、店長代理、店長へ進むためには、何が必要なのか。一つひとつ、評価項目として明確にしました。私は、学生だから。アルバイトだから。正社員だから。そんな理由で、評価を変えたくありませんでした。学生でも、優秀なら評価される。努力した人が、次のステージへ進める。そんな会社にしたかったのです。だから私は、評価を曖昧にしませんでした。過去には、「なんで、あの人が正社員なんですか。」「あの人が辞めないなら、私が辞めます。」そんな声を聞いたこともあります。仕事への不満ではありません。理不尽な評価への不満でした。評価が曖昧だと、努力ではなく、人間関係を頑張る人が出てきます。社長に気に入られようとする人もいました。私は、それだけは避けたかったのです。だから、誰が見ても分かる基準を作りました。そして、役職階級一覧を渡し、努力する方向を、最初から見えるようにしました。もちろん、手間も増えました。役職が
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私は、人生で一番悔しい決断をした。 ~それでも、前へ進むしかなかった。~

私が、人生で、一番苦しかった決断。それは、「蔵良」を終わらせることでした。人生を懸けて育ててきた会社。たくさんの従業員や、たくさんのお客様に支えられ、少しずつ大きくしてきた会社。その「蔵良」が、この世からなくなりました。負債は、約1億6千万円。法人破産と、自己破産。会社がなくなる。それは、登記が消えることではありません。建物がなくなることでもありません。夢がなくなること。仲間との思い出の場所が、なくなること。人生の一部が、なくなることでした。私は、あの日のことを、今でも忘れることができません。でも、私が一番つらかったのは、会社を失うことではありませんでした。当時、娘は、中高一貫校の高等部でした。一番多感な年頃です。後になって、学校の先生が、娘を気に掛けてくださっていたことを知りました。きっと、学校では、いろいろなことを言われたでしょう。陰口も、あったかもしれません。父親として、本当に申し訳ない気持ちでした。もし、時間を戻せるなら。そう思ったことは、一度や二度ではありません。でも、私は、会社を続けることよりも、家族が生きていくことを選びました。当時の私は、これ以上、前へ進む方法が見つかりませんでした。だから、会社を終わらせる決断をしました。悔しかった。本当に悔しかった。でも、今振り返ると、あれは、私にとって、必要な決断だったと思っています。もし、あのまま意地だけで続けていたら、家族も、私自身も、壊れていたかもしれません。人生は、一度終わったように感じました。でも、終わっていませんでした。私は、もう一度、店を始めました。店の名前は、「くらよし」。そして、一度は手放した自宅も、買い戻
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私は、縁をつなぎ止めることをやめた。 ― 一年連絡しなくても、変わらない関係がある。―

若い頃の私は、たくさんの人と、つながっていました。会社を経営し、店舗を増やしていけば、出会う人も増えていきます。経営者。取引先。地域の人。仕事関係の人。いろいろな会にも、参加していました。人とのつながりは、どんどん広がっていきました。でも、自己破産をして、私は、多くの会から抜けました。当然、疎遠になる人もいました。でも、不思議と、寂しいとは思いませんでした。むしろ、気楽になりました。会社を経営していると、人とのつながりにも、いろいろなものが混ざります。仕事。立場。肩書。損得。もちろん、それが悪いとは思いません。仕事をしていれば、必要な関係もあります。でも、会社を失い、肩書を失ったことで、そうした関係の多くも、自然となくなりました。その時、私は、それでも変わらない縁があることに、気付きました。自己破産した後も、毎年、年賀状を送ってくれた人がいました。その一人は、20年ほど前、この店で働いていた、当時高校生だった女の子です。今では、母親になっています。その子は、4人兄弟でした。そのうち3人が、この店でアルバイトをしてくれました。今では、頻繁に連絡を取る訳ではありません。それでも、つながっています。もう一人は、私の会社で働いていた、元社員です。今は独立して、自分の飲食店を経営しています。私がこれまで雇用してきた人の中でも、人柄という意味では、一番と言っていいくらい、素敵な人です。私が、店の営業を再開する前。まだ店内を、ひたすら掃除していた頃、彼は、私の知らない友人まで連れて、掃除を手伝いに来てくれました。頼んだ訳ではありません。それでも、来てくれました。今年、久しぶりに、彼の店へ飲み
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私は、一人でできることを増やしてきた。 ― でも、人生は一人では共有できない。―

私は、これまで、一人でできることを、ずいぶん増やしてきました。経営する。店を作る。料理をする。人を育てる。数字を見る。問題が起きれば、自分で考える。自分で決める。自分で動く。経営者である以上、最後の後始末は、自分の責任です。人を雇ったのも、自分です。だから私は、何度かやって見せます。一緒にやります。その後、本人にやってもらいます。必要なら、コツも教えます。そこまでやった後は、その人次第です。それでも、やらなければ、最後は、自分がやるしかありません。私は、ずっと、そう考えてきました。だから、仕事に関しては、一人でも、かなりのことができると思っています。営業を再開する時も、私は、一人でも営業できる店を作ろうとしました。誰かがいなければ、営業できない店にはしたくなかったからです。自分でできることを増やせば、誰かに依存しなくていい。自分で決めて、自分で動いて、自分で結果を受け止めることができる。経営において、それは、一つの強さだと思っています。でも、人生まで、すべて一人で完結できる訳ではありません。人生を振り返ると、一人ではできないこともありました。その一つが、子どもです。私は、子育てをしていた頃、自分を、良い父親だったとは思っていません。仕事ばかりしていました。会社を優先したことも、たくさんありました。でも、自己破産して、人生が大きく変わったあと、娘との関係も、少しずつ変わっていきました。今、娘は、薬学部で学んでいます。私は、その挑戦を応援しています。学費も、仕送りも、必要です。でも、負担だとは思っていません。娘が、自分の目標へ向かって進んでいる。その未来を、私も一緒に見ています。も
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私は、「余裕」を持てるようになった。 ― 何もしない時間を、無駄だと思わなくなった。―

昔の私は、ほとんど休みませんでした。365日のうち、完全に休んだと言える日は、2日くらいだったと思います。忙しい時には、朝から晩まで、会社のために動いていました。でも、本当に休めていなかったのは、身体ではなく、頭だったのかもしれません。旅行にも行きました。海外にも行きました。でも、旅行に行ったからといって、仕事をしなくていい訳ではありません。旅先でも、会社から連絡が来ます。電話をする。指示を出す。確認をする。身体は、会社から離れていても、頭の中は、会社から離れていませんでした。経営者だから、仕方がない。当時の私は、そう思っていました。一つの課題を解決する。すると、その先に、また次の課題が現れる。それを解決すると、また次が現れる。売上。利益。人材。出店。資金繰り。会社を経営している限り、課題が、すべてなくなる日はありませんでした。私は、ずっと、その無限ループの中にいました。だから、「余裕」がありませんでした。40歳までに、10店舗を持つという目標も、達成しました。その後、一年ほど、最低限の仕事だけをして、海外にもたくさん行きました。でも、自分が会社から離れれば、業績が下がっていく。売上も、評判も、士気も落ちていく。それを見ながら、心から楽しめるはずがありません。休んでいても、休んでいなかったのだと思います。今は、まったく違います。私は今、週に2日も休んでいます。休みの日には、朝からお酒を飲むこともあります。昔の私には、考えられないことです。朝から自宅で、お酒を飲む。今日は、車を運転する予定もない。仕事へ行く必要もない。だから、好きな時間に飲む。そして、アオと一緒に過ごします。ずっ
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私は、自分をブランド化する一年にした。 ― 信用は、一日ではつくれない。―

昨年、私は、これからの人生で、何をしたいのかを考えました。飲食店経営者として、もう一度店を立て直すことはできました。でも、私が本当にやりたいことは、その先にありました。自分が経験してきたことを、誰かへ伝える。そして、その人が、「やってみよう。」そう思えるきっかけを作りたい。私は、そう考えるようになりました。でも、一つ問題があります。私が、どれだけ経験を積んできても、初めて会う人は、私のことを知りません。飲食業に38年間携わってきたことも。多店舗展開をしてきたことも。会社を破産させたことも。そこから、もう一度店を立て直したことも。私が言わなければ、誰にも分かりません。そして、知らない人の話を、いきなり信用することはできません。だから私は、今年を、自分自身をブランド化する一年にしようと決めました。ブランドと聞くと、自分を格好良く見せることだと思う人もいるかもしれません。私は、そうは考えていません。私にとってブランドとは、「この人の話なら、少し聞いてみたい。」そう思っていただくための、信用の積み重ねです。そのために、今年二月、コンサルティング会社を設立しました。書籍も出版しました。約一か月で、八万四千文字を書き上げ、二冊の書籍にしました。ブログも書き始めました。ココナラも始めました。講演のご依頼もいただきました。でも、私は、すぐに仕事を増やそうとはしませんでした。講師を紹介する会社にも、あえて登録しませんでした。焦る必要はない。そう思ったからです。今年は、仕事を取りにいく一年ではありません。信用を積み重ねる一年。そう決めていました。本が売れない時代だと言われています。私も、それは知っ
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私は、会社のお金で経験を買った。 ― 人は、経験で成長する。―

私は、会社のお金で経験を買った。― 人は、経験で成長する。―私は38年間、飲食業に携わってきました。スタッフによく、こんな話をしていました。「繁盛店へ行ってみたら?」すると、決まって返ってくる言葉がありました。「お金がありません。」私は思いました。だったら、会社が払えばいい。そうすれば、行かない理由はなくなります。私は、言い訳を一つずつ、なくしていきました。だから、正社員が他の飲食店を利用した費用は、会社が全額負担しました。アルバイトは、半額負担です。ただし、条件がありました。日時。店舗名。誰と行ったのか。混み具合。自店で取り入れられそうなこと。素晴らしいと思ったこと。簡単なレポートだけは、提出してもらいました。私は、料理の感想を書いてほしかった訳ではありません。「何を感じたのか。」それを知りたかったのです。家族と外食した場合も、会社が負担しました。飲食店で働く人は、世間が休んでいる時間に働きます。家族との時間を、取りにくい仕事です。だから私は、家族との食事も、大切な時間だと思っていました。もちろん、制度を作れば、失敗もあります。入社したばかりの社員が、高級ステーキ店で、五万円以上使ったこともありました。その出来事をきっかけに、利用ルールを追加しました。私は、どんな仕組みも、完成するとは思っていません。現場で起きたことを見ながら、改善を繰り返してきました。制度では利用できない店へ、スタッフを連れて行くこともありました。女性スタッフから、「一度行ってみたい。」そんな声があれば、ホストクラブへ連れて行ったこともあります。もちろん、会社のお金では使えません。その時は、私のポケットマネ
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私は、成長シートを書かせた。 ― 自分の努力を、見失わないために。―

私は38年間、飲食業に携わってきました。以前、スタッフに、「成長シート」を書いてもらっていました。書くか、書かないか。それは、本人の自由です。私は、無理に夢を書かせたい訳ではありませんでした。仕事は、生活のために働く人もいます。夢のために働く人もいます。友達がいるから、アルバイトを始める高校生もいました。働く理由は、人それぞれです。だから私は、目標を持つことを、強制しませんでした。ただ、もし目標があるなら、紙に書いてほしい。そう思っていました。長期的な目標。短期的な目標。そして、その目標に向かって、何ができるようになったのか。一つずつ、自分で記録してもらいました。人は、周りと比べてしまいます。「あの人は仕事ができる。」「自分なんて、まだまだだ。」そう思うことがあります。でも、成長シートを開くと、昨日までできなかったことに、○が付いている。斜線が増えている。半年前には、できなかった仕事が、今では当たり前にできるようになっている。成長シートは、他人と比べるためのものではありません。昨日の自分と比べるためのものでした。私は、この成長シートを、評価にも活用していました。でも、見ていたのは、夢の大きさではありません。口だけか、本気かでもありません。自分で決めた目標に向かって、一歩でも進もうとしているか。その姿勢を見ていました。面談では、「ここまでできるようになったね。」そんな話をすることが増えました。褒める理由は、結果だけではありません。努力した過程も、褒めることができました。私は、成長シートを、一人のスタッフに渡しただけでは終わりませんでした。あるスタッフには、店舗を一店舗、丸ごと任せ
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私は、人の記憶を信用しない。 ― 人ではなく、仕組みを信じる。―

私は38年間、飲食業に携わってきましたこれまで、海鮮居酒屋、スペインバル、肉バル、焼肉店、ラーメン専門店、低単価均一居酒屋、カラオケボックス、ダイニング、食堂、創作居酒屋など、さまざまな業態を新規オープンしてきました。業態が変わっても、会社の規模が変わっても、私の経営で変わらなかったことがあります。それは、人の記憶を信用しないことです。この言葉だけを聞くと、「人を信用していないのですか?」と思われるかもしれません。違います。私が信用しないのは、人ではなく、人の記憶です。人は忘れます。忙しければ忘れます。疲れていても忘れます。それは能力の問題ではありません。人だからです。だから私は、「忘れないように頑張ってください。」とは言いません。忘れても仕事が回る仕組みを作る。それが、私の仕事だと思っていました。前回までご紹介した、「2タッパ理論」「発注ラベル」「ホワイトボード」これらもすべて、人の記憶に頼らないために作った仕組みです。しかし、私が記録を大切にしたのは、現場だけではありません。社員を採用する時も同じです。雇用条件は本人に選んでもらい、雇用通知書や補足事項を説明し、内容を確認したうえで、同じ書類へサインをもらいます。理由は一つ。「説明した。」「聞いていない。」そんな認識の違いをなくすためです。実際に裁判になった時も、私を守ってくれたのは、人の記憶ではありませんでした。記録です。だから私は、「言った、言わない。」ではなく、記録が残る仕組みを作るようになりました。現場でも同じです。ある店舗では、決まった曜日に本社へ送る発注FAXが届かないことがありました。本社では、そのFAXをもと
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私は、52歳から未来を楽しみにした。 ― ゴールではなく、次の通過地点へ。―

私は、40歳までに10店舗を持つ。そう決めていました。そして、実際に10店舗まで増やしました。夢を叶えた。そう言えば、聞こえはいいかもしれません。でも、私にとっては少し違いました。あの頃の私は、夢を追いかけていたというより、背負ったものを守るために走っていた。そんな感覚の方が近かったと思います。父から会社を引き継いだ時、会社は債務超過でした。約2,000万円のマイナス。毎年、1,000万円を超える赤字も出ていました。父が創業した肉屋も、スーパーが増え、そのままでは成り立たなくなっていました。私は、会社を立て直すために、40歳までに10店舗という目標を決めました。そして、実行しました。40歳までに、10店舗。目標は、達成しました。でも、そこは、ゴールではありませんでした。人生の一つの通過地点でした。その後、私は一年ほど、最低限の仕事だけをして、海外へもたくさん行きました。会社から少し離れたことで、見えたものもありました。自分がいなくても回るように、仕組みを作ったつもりでした。でも、司令塔がいなくなれば、少しずつ、会社は変わっていきました。売上も、評判も、士気も落ちていきました。私は、ずいぶん考えました。自分のやり方が、間違っていたのだろうか。その後、私は、いろいろなものを失いました。会社も、店も、一度は手放しました。そして、もう一度、自分の人生を作り直しました。今、私は52歳です。不思議なことに、今の私は、40歳の頃より、未来を楽しみにしています。「今、一番楽しみなものは何ですか?」そう聞かれたら、私は、来年の自分。そう答えます。今年、私は、たくさんの種を蒔きました。コンサルティ
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アオのブログ「主人は何故、本を書いたのか?にゃ!」

「ニャ~オ!アオにゃ!」今日も主人を観察していたにゃ。主人の家には本があるにゃ。でも、主人が一番大事そうにしている本は、主人自身が書いた本らしいにゃ。アオは最初、主人は作家になりたかったのかと思ったにゃ。違ったにゃ。本を書いて大金持ちになりたかったのかと思ったにゃ。それも違ったにゃ。主人の本は、びっくりするくらい安いにゃ。アオのおやつ代の方が高いかもしれないにゃ。じゃあ何故、主人は本を書いたのかにゃ?アオなりに考えたにゃ。主人は昔、負債1.6億円で自己破産したにゃ。家も失ったにゃ。店も失ったにゃ。普通なら、人には話したくない話だと思うにゃ。でも主人は、その話を隠さないにゃ。むしろ、自分から話すにゃ。不思議にゃ。アオなら黒歴史は隠すにゃ。でも主人は違うにゃ。主人はよく言うにゃ。「同じように苦しんでいる人がいる」と。だから本を書いたんだと思うにゃ。主人は、成功した話を書きたかったんじゃないにゃ。失敗した話を書きたかったんだと思うにゃ。それも、とても大きな失敗の話にゃ。でも、失敗したら終わりじゃないという話でもあるにゃ。主人は時々、「自己破産は人生の終わりじゃない」と言うにゃ。アオは難しいことは分からないけど、主人を見ていると本当だと思うにゃ。だって主人は、今も店をやっているにゃ。家も買い戻したにゃ。本も書いたにゃ。ブログも書いているにゃ。ココナラも始めたにゃ。終わった人には見えないにゃ。だから主人は、自分のために本を書いたんじゃないと思うにゃ。昔の自分みたいに、苦しんでいる誰かのために書いたんだと思うにゃ。そしてもう一つ理由があると思うにゃ。主人は時々、こう言うにゃ。「書籍を複数出
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私は、自分の扉を閉めないことにした。 ― 大切な縁は、無理につくらなくても残っていく。―

私は、人との縁を、無理に増やそうとは思わなくなりました。たくさんの人と知り合う。たくさんの人と連絡を取る。人脈を広げる。若い頃や、会社を多店舗展開していた頃は、今より、はるかに多くの人と関わっていました。仕事をしていれば、自然と人は集まります。経営者。取引先。スタッフ。地域の人。いろいろな会で出会う人。でも、自己破産をして、多くの会から抜けました。人との関係も、ずいぶん少なくなりました。今は、それでいいと思っています。縁は、追いかけなくてもいい。無理につなぎ止めなくてもいい。でも、自分から扉を閉める必要もない。私は、そう思うようになりました。すべての人に、扉を開けておく必要はありません。でも、この人との縁は、大切にしたい。この人なら、いつかまた話したい。そう思う人に対して、わざわざ、自分から扉を閉める必要はありません。私には、20年ほど、会っていない人がいます。私が飲食店を始めた頃、一緒に働いてくれた、当時高校生だったスタッフです。今では、母親になっています。20年、会っていません。だからといって、私の中で、縁がなくなった訳ではありません。その子の弟にも、たまに、何気ないLINEを送ることがあります。ご両親も、仕事を退職され、今でも、たまに店へ来てくれます。頻繁に会う訳でもない。頻繁に連絡を取る訳でもない。それでも、私にとっては、大切な縁です。縁とは、会った回数や、連絡した回数では、測れないのだと思います。私には、30年以上付き合っている、宮本という友人もいます。宮本は、旅行へ行きたい時、私に、こんなことを言います。「お前は、いつまでも頑張ってよね。」たぶん、これからも、誘った
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私は、来年誰かのお役に立つことを決めた。 ― 希望とは、前を向くための「情報」だ。―

昨年、私は、これからの人生を考えました。この先、どこへ向かいたいのか。何を残したいのか。何日も考えた末に、私は一つの答えを出しました。来年、誰かのお役に立つ人になろう。そう決めました。今年二月、コンサルティング会社を設立しました。講演のご依頼もいただくようになりました。でも、私は、講師を紹介する会社へ登録することは、あえてしませんでした。焦る必要はないと思ったからです。今年は、土台を作る一年。そう決めていました。昨年十二月から、書籍の執筆を始めました。約一か月で、八万四千文字を書き上げ、二冊の書籍を出版しました。ブログも書き始めました。ココナラも始めました。すべて、来年のためです。来年、地方で頑張る個人経営者や、経営に悩む方へ、私の経験を伝えたい。そう考えています。なぜ、地方の個人経営者なのか。それは、私自身が、同じ立場だからです。東京には、大きな会社も、フランチャイズもあります。でも、私は、そういう会社を経営した経験はありません。十店舗までの会社なら、私には経験があります。個人経営だからこそ、リメイクできる。私は、そう信じています。私が伝えたいのは、経営テクニックだけではありません。利益を増やす方法だけでもありません。私が伝えたいのは、希望です。希望とは、根拠のない励ましではありません。私は、希望とは、前を向くための「情報」だと思っています。知らないから、諦めてしまう人がいます。方法を知らないから、苦しみ続ける人がいます。でも、一つの情報が、人生を変えることがあります。「そんな方法があったのか。」「自分にもできるかもしれない。」そう思えた瞬間、人は、前を向くことができます。私
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私は、未来の自分へ投資した。 ~30年後も、仕事を楽しむために。~

来週、私は、店の大型冷凍冷蔵庫を買い替えます。でも、目的は、新しい冷蔵庫が欲しいからではありません。未来の自分へ、投資するためです。営業を再開した時、私は、大型の冷凍冷蔵庫に、40万円以上かけてメンテナンスをしました。当時は、これで安心できる。そう思っていました。ところが、半年も経たないうちに、「修理はできません。」と言われました。私は、正直、「あのメンテナンスは何だったんだろう。」と思いました。もちろん、機械は壊れるものです。誰かを責めたいわけではありません。でも、この出来事が、私の考え方を変えました。それまで私は、設備は、業者に頼るしかないと思っていました。しかし、これからは違います。未来の自分が、管理しやすい設備を選ぶ。そう決めました。現在、店には、幅1200mmの大型冷凍冷蔵庫があります。これを、幅630mmの冷蔵庫と、幅630mmの冷凍庫、二台へ変更します。一台を、二台にする。一見すると、手間が増えるように思えるかもしれません。でも、私にとっては逆です。小型なら、自分でも動かせます。アルバイトにも手伝ってもらえます。故障しても、交換が簡単です。100Vなので、子ブレーカーごとに管理できます。もし故障しても、原因がすぐ分かります。大型一台が止まるより、営業への影響も少なくなります。大型冷凍冷蔵庫は、すでに一台、750幅の冷蔵庫と冷凍庫へ変更しました。そして来週、もう一台も、630幅の冷蔵庫と冷凍庫へ変わります。私は、少しずつ、店を変えています。今の自分のためではありません。10年後。20年後。30年後。未来の自分が、困らないためです。私は、あと30年、仕事を楽しみたい。
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ライバルは、今も私の店で生きている

私がゴルフから離れた理由の一つに、ライバルの死があります。私がゴルフを始めたきっかけは、そのライバルのお父さんでした。ある日、店のカウンター越しに突然こう言われました。「お前、明日の日曜、時間あるか?」私は断れる立場ではなく、「空いております。」と即答しました。翌日、ゴルフ練習場へ連れて行かれ、新潟トップシニアとして活躍していた方に、クラブを選んでいただきました。パターを除いて40万円を超える買い物でした。「ここまでお金をかけたのだから、絶対に上手くなろう。」そう決めた私は、夢中で練習しました。目標は、70台でラウンドすること。そして、ホールインワンを達成すること。初年度、一日で1,500球打ったこともあります。休日には、練習場のオープンから閉店まで、13時間打ち続けた日もありました。その練習場には、決まってライバルの彼が現れます。当時は、まだ私より少し上手い程度でした。一方、お父さんは理事長杯で優勝するほどの腕前。不思議なことに、親子が同じ時間に練習場へ来ることはほとんどありませんでした。教え方も対照的でした。お父さんは、「こう構えるだろ。そしたら、こうだ。あとはバーンとな!」私は、「はい!」と返事をしながら、実は何一つ理解できませんでした。反対に、息子である彼は理論的でした。私には、その説明の方がよく理解できました。そんな二人に教えられながら、私はゴルフを続けました。5年目。ついに目標だった70台を達成しました。その日は、お父さんと同じ組でのラウンドでした。本当に嬉しかったことを覚えています。その頃、ライバルの彼はヘルニアの手術をしていました。「弱った姿は見られたくない。」
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私は、300人分の豚汁を作った。 ~善意は、時に受け入れられない。~

2004年10月23日。午後5時56分。新潟県中越地震が発生しました。私は、出前の準備をしている最中でした。店の外へ飛び出すと、自分の足元の地面が、揺れるたびに、パカパカと開いたり閉じたりしていました。電気も、水道も、ガスも止まりました。冷蔵庫も、冷凍庫も止まっています。このままでは、店の食材はすべて駄目になります。私は考えました。捨てるくらいなら、温かいものを食べられない人へ届けよう。店で一番大きな、直径50センチほどの寸胴を使い、社員やアルバイトと一緒に、約300人分の豚汁を作りました。柏崎の本社から水を運び、バーベキュー用に備えていたプロパンガスを使って、何とか炊き上げました。出来上がった豚汁を積み、避難所へ向かいました。一番多くの人が避難している避難所でした。私は、役場の職員へ、無償で配りたいと伝えました。すると、返ってきた言葉は、「もし食中毒になったら、どうするんですか?」でした。私は、「今は、そんなことを言っている場合ではない。」そう思いました。でも、何も言えませんでした。社員が、「切ないですね…。ほかの避難所へ行ってみましょう。」そう言いました。私たちは、その避難所をあとにしました。道路は歪み、車に積んだ大きな寸胴の豚汁は、走るたびに、バシャ、バシャと揺れます。次の避難所へ向かいました。でも、そこには、十人ほどしかいませんでした。配れたのは、三杯だけでした。時間も遅くなり、その日の炊き出しは終わりました。翌日、柏崎の本社で、残った大量の豚汁を、私自身が捨てました。仕方ありませんでした。数週間後、私は、村長へ、この出来事を話しました。村長は、最後まで話を聞き、こう言
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私は、「共に成長」という経営理念を掲げた。 ― すべての仕組みは、この言葉から生まれた。―

私は30歳を過ぎた頃、会社の経営理念を考えました。いろいろ悩んだ結果、私が選んだ言葉は、「共に成長」でした。この「共に」には、特別な意味があります。スタッフ。お客様。取引業者さん。地域の皆さん。会社。そして、私自身。会社に関わるすべての人と、一緒に成長していきたい。そんな想いを込めました。私は、会議のたびに、店舗のコンセプトと一緒に、会社の経営理念も伝えていました。理念は、壁に飾るための言葉ではありません。毎日の判断基準になるものです。だから私は、経営理念を、言葉だけで終わらせませんでした。役職階級を作ったのも、成長シートを書いてもらったのも、利益をスタッフへ還元したのも、会社のお金で経験を買ったのも、数字を隠さなかったのも、すべて、「共に成長」という考え方から生まれた仕組みです。もちろん、会社を経営していれば、思い通りにならないこともあります。裏切られることもあります。横領されたこともありました。それでも、私は、経営理念を変えようとは思いませんでした。理念とは、順調な時だけ掲げるものではないからです。苦しい時こそ、自分が何を信じるのか。それが、経営理念だと思っています。私は、人は、何歳になっても成長できると信じています。でも、一人だけが成長すればいいとは、思っていませんでした。スタッフが成長する。会社が成長する。お客様と、取引業者さんと、共に成長する。そして、私自身も成長する。誰か一人ではなく、関わる人たちと、一緒に成長していく。それが、私の理想でした。だから私は、「共に成長」という経営理念を掲げました。今振り返ると、役職階級も、成長シートも、利益還元も、経験への投資も、数字
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アオのブログ「主人は何故、アオに運命を感じたのか?にゃ!」

🐾ニャ~オ!アオにゃ!今日は少し不思議なお話をするにゃ。主人は時々、アオを見ながらこう言うにゃ。「アオは、私のところへ来る運命だったのかもしれない。」運命?アオは猫だから難しいことは分からないにゃ。でも、主人がそう思う理由は、少しだけ知っているにゃ。主人は数年前まで、猫と暮らしたことが無かったにゃ。それなのに、ある日突然、「何かのお世話がしたい。」そう思ったらしいにゃ。そして出会ったのが、アオだったにゃ。誕生月は主人と同じ。歳はちょうど50歳違い。主人は笑いながら、「50歳年下の茶髪娘との共同生活が始まった。」と言っていたにゃ。主人は本を書く時、いつも同じ歌を口ずさんでいたにゃ。WANIMAさんの「1106」。理由は自分でも分からなかったらしいにゃ。何百回も口ずさんでいたのに、その時は特別な意味なんて考えていなかったそうだにゃ。その歌は、大切な人への想いが込められた楽曲だったにゃ。その影響で、主人は経営者向けの本に、「拝啓、飲食経営者様、店を続けたいならこれ読んでみて」というタイトルを付けたにゃ。主人は、「歌から勇気をもらった。」そう話していたにゃ。それから数年後。主人は一つのことに気付いたにゃ。「1106」。そして、アオの誕生日は……11月5日。主人は、「ただの偶然かもしれない。」と言うにゃ。でも、そのあと必ず、「人生には説明できない縁がある。」とも言うにゃ。アオは輪廻転生なんて分からないにゃ。証明もできないにゃ。でも、主人が落ち込んでいる日は、そばにいるにゃ。寝室へ行けば、寝室でくつろぐにゃ。リビングへ行けば、リビングで寝転ぶにゃ。たまに頭をゴツンとするにゃ。主人は撫でてく
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私は、過去の意味を決めるのをやめた。 ― 人生は、未来によって意味が変わる。―

過去は、変えることができません。だから、過去に起きたことには、すでに意味が決まっている。以前の私は、どこかで、そう思っていたのかもしれません。でも、今は違います。同じ出来事でも、その後、自分がどう生きたかによって、意味は変わる。私は、そう思うようになりました。私には、自己破産した経験があります。もし、もう一度、自己破産する前に戻って、同じ人生を選ぶのか。そう聞かれたら、私は、迷わず答えます。自己破産を選びます。それどころか、今の私なら、もっと早く決断します。だからといって、自己破産が、素晴らしい経験だったと言いたい訳ではありません。会社を失いました。家を失いました。肩書も失いました。その後、しばらく、ほとんど何もする気になれない時間もありました。あの苦しみまで、「必要な経験だった。」と、美化するつもりはありません。もし、当時の自分に会えるなら、私は、こう言います。「会社を辞めろ。」心が壊れるまで、続ける必要はなかった。もっと早く、違う道を選べばよかった。今でも、そう思っています。過去を、無理に良い出来事へ、書き換える必要はありません。でも、起きてしまったことは、変えられません。だったら、その経験を、これから何に使うのか。それは、自分で決めることができます。私は、40歳までに、10店舗を持つという目標を立てました。そして、実際に、二桁の店舗を経営しました。最終的に、会社は破産しました。だからといって、10店舗まで増やしたことまで、失敗だったとは思いません。一つの店を経営することと、10店舗を経営することでは、見える景色が違います。人材。組織。資金。出店。撤退。教育。管理。私は、実
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アオのブログ「 主人は何故、婚活を休んでいるのか?にゃ!」

「ニャ~オ!アオにゃ!」今日は主人の秘密を話すにゃ。主人は少し前まで婚活をしていたにゃ。でも最近は、 あまりしていないにゃ。 アオは不思議だったにゃ。 主人はよく、 「人生は一度きり」 と言うにゃ。 それなのに、 何故休んでいるのかにゃ? アオなりに考えたにゃ。 たぶん疲れたんだと思うにゃ。 人間は知らない人と仲良くなる時、 たくさんのエネルギーを使うらしいにゃ。 自己紹介したり、 仕事の話をしたり、 人生の話をしたり。 アオなら、 チュールをくれたら、「すぐ友達」にゃ。 人間は大変にゃ。 でも主人は、 婚活を諦めた訳ではないと思うにゃ。 今は、 ラーメン屋を頑張っているにゃ。 ブログも書いているにゃ。ココナラも頑張っているにゃ。 主人はよく、 「今やるべきことをやる」 と言うにゃ。 だから今は、 人生の準備期間なのかもしれないにゃ。 そして、 良いご縁があれば嬉しい。 そんな感じなんだと思うにゃ。 アオはそう思うにゃ。 また主人を観察して報告するにゃ🐾◆アオ日記主人は婚活を休んでいるにゃ。 でも時々、 楽しそうにスマホを見ているにゃ。 アオは深く聞かないことにしているにゃ。 大人には大人の事情があるらしいにゃ。 でも今のところ、 アオの方がファンが多い気がするにゃ。 主人も頑張るにゃ🐾ちなみに、カウントダウン開始にゃ!あと「5」にゃ!■関連ブログ◆飲食店の利益改善について相談したい方はこちら◆経営不振や資金繰りでお悩みの方はこちら
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アオのブログ「主人は何故、再起できたのか?にゃ!」

「ニャ~オ!アオにゃ!」今日は経営者の主人について話すにゃ。主人は昔、会社を経営していたにゃ。たくさんお店もあったらしいにゃ。でも、コロナ禍で大変なことになったにゃ。負債は1.6億円。主人は自己破産したにゃ。アオはその頃を知らないけど、主人は今でも時々その話をするにゃ。普通なら終わりだと思うにゃ。でも主人は違ったにゃ。破産した次の日から、また前を向いたにゃ。不思議にゃ。アオなら一日中寝込むにゃ。主人は何故、再起できたと思うにゃ?アオなりに考えたにゃ。お金でもないにゃ。才能でもないにゃ。運だけでもないと思うにゃ。それは、主人が特別だったからじゃないにゃ。主人は今でも失敗するにゃ。忘れ物もするにゃ。酔っ払うと変なことも言うにゃ。でも、一つだけ違うと思うにゃ。それは、止まらなかったことにゃ。自己破産した後も、店を続けたにゃ。家を買い戻したにゃ。本を書いたにゃ。ブログを書いたにゃ。ココナラも始めたにゃ。全部成功した訳じゃないにゃ。でも、止まらなかったにゃ。主人がよく言う言葉があるにゃ。「思ったら即行動。しかし、準備は慎重に徹底的に。」アオには難しい言葉だけど、たぶん、少しずつでも前に進めという意味だと思うにゃ。もし今、悩んでいる人がいるなら、主人みたいに大きなことをしなくていいにゃ。まずは一つだけ行動してみるにゃ。電話してみる。相談してみる。調べてみる。それだけでも景色は変わるかもしれないにゃ。主人はいつも言うにゃ。「人生は一発逆転じゃない。」「小さな行動の積み重ねだ。」アオもそう思うにゃ。だから今日も、一歩だけ前に進むにゃ。また主人を観察して報告するにゃ🐾◆アオ日記主人は最近、前歯を
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品田知紀の飼い猫「アオ」とは?

アオを迎え入れたときは、想像もしていなかった。アオと出会ってから2年後、執筆をきっかけに、思いもよらないアオの誕生に纏わる衝撃的な事実が!私の著書 「コロナ禍がくれた、ストレスフリーで自分らしい生き方」
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