ーー嫌われるのが怖かった、あの頃の私へ/そして今、同じように悩む誰かへ
私はずっと、人間関係に自信がありませんでした。
人に嫌われることが、何よりも怖かったのです。
家庭環境は複雑で、封建的な空気が強く、家族であっても「その言い方はきつすぎる」「どうしてそんなに冷たいのだろう」と思うことがしばしばありました。
だからこそ私は、
「自分は、あんなふうにはならない」
そう心に決めて、生きてきました。
両親のことは嫌いではありません。
でも、あのままのやり方では誰かを傷つけてしまう――そう思う場面が多かったのです。
父にも母にもよく注意され、自分は欠点だらけだと感じていました。
だからこそ「せめて思いやりを大切にしよう」と心で決めて、ずっと過ごしてきました。
集団に入ると、人が離れていく
けれど…
大人になっても、ある場面で同じことが起こりました。
グループの場で意見を述べると、気づけば周りの人が距離を置いていく。
勉強会で発言すると、急に人がいなくなる。
そのたびに私は考え込みました。
「私の何がいけなかったのだろう」
「徳ある者は孤ならず、必ず隣あり、というではないか…」
実家に飾られていたその書の言葉を見ながら、自分を責め、改善しようと必死でした。
でも最近になってようやく分かってきたのです。
私の“問題”ではなかったのだと。
距離を置かれるとき、何が起きているのか
いま私は、いじめ・モラハラ・DVなどを研究しています。
そこで知ったことがあります。
距離を置かれたとき、
相手の内側で起きているのは「比較」や「劣等感」の反応であることが多い
ということです。
あなたが何かに夢中になり、真剣に取り組み、少し突出して見えたとき――
相手は無意識にこう感じることがあります。
「自分と比べてしまう」
「羨ましい」
「妬ましい」
「負けたくない」
「自分の価値が脅かされた気がする」
つまり、
相手は“あなたと”戦っているのではなく、“自分の中の劣等感”と戦っている
のです。
本来、学びとは「味わう・聴く・受け取る」という営み。
ジャッジする必要はありません。
でも心が不安定だと、人は「聴く」より先に、自分の価値を守ろうとしてしまう。
その結果が “距離” という形になることがあります。
あなたがしてはいけないこと、
それは 相手のご機嫌取り です。
相手は今、自分と闘っている最中。
劣等感という泥の中で必死に踏ん張っている“成長期のさなぎ”のような状態です。
その途中であなたが変に遠慮したり、縮こまったりすると、
相手は自力で脱皮する機会を失ってしまうことさえあります。
“ねたまれる”とは、
あなたの良さが認められている証拠でもある
のです。
決して嬉しい現象ではないですが、事実としてそこには「認めている」があります。
だから、どうか誤解しないでほしいのです
もしあなたが今、距離を取られたり、避けられたりしたとしても――
「嫌われた」と思わないでください。
その現象の多くは、
あなたの価値や能力の高さが引き起こす「相手の内側の揺れ」であって、
あなたの欠点ではありません。
そして私は、
あなたが何かに一生懸命に取り組んでいる姿を見たら、
こう言える自分でありたいと思っています。
「あなたに出会えてよかった」
「その情熱が素敵だと思う」
距離を置かれても、あなたの価値は揺るがない。
むしろ、そんなあなただからこそ輝いている。
どうか、そのことを心のどこかに置いておいてください。
-----いつか、あなたに会えたならば
そっと、こう伝えたい
「よく頑張ったね、涙は、心の汗
本当に、本当に頑張ったね、最高だよ!」
人を責めずに、自分の足で歩いてきたその姿は
まるで 虹 のようだと、きっと私はそう思うだろう・・・