フランダースの犬のネロが自殺したという事実を知る人はそういないでしょう。私もつい先日、ネロの木靴という本を読んで初めて知り、衝撃を受けました。ではなぜ作者はネロを自殺扱いにしたのでしょうか?原作でははっきりとネロがクリスマスイブの教会の中で木靴を脱ぎ、「いっしょに死のう」とパトラッシュに寄り添う姿が描写されていますが、私の世界児童文学全集には同作品が収録されておらず、アニメでのネロは実年齢の15歳よりも幼く描かれ、あたかもパトラッシュと仲良く天国に行ったかのように描かれ、自殺したことにされていません。同作品の続編ともいえるネロの木靴は日本人が書いたものですが、作中では冷たくなったネロの足に神父さんが木靴を履かせて凍死扱いにしました。そうしないと自殺扱いでは教会でネロの葬儀ができないからです。ましてやネロを教会の墓地に埋葬することもできません。あの寒い冬の深夜にネロは教会で木靴を脱ぎましたが、それは明らかに体温を奪うというか、死を早める自殺行為に等しいものでした。逆に生きようとするならば、ネロは木靴を履いたままであったはずです。ここはイブの教会ですから誰かが教会を訪れる可能性はゼロではありません。ネロはかすかな可能性に賭けたのでしょうか?もしかしたらというくらいの希望はあったのかもしれません。ネロの木靴では発見者でもある神父さんの機転でネロは凍死扱いにされ、教会で葬儀が営まれてネロは木靴を履いたままパトラッシュと一緒に埋葬されたことになっています。しかしアニメでのネロは凍死扱い。アメリカで映画化された実写版に至ってはその場に駆けつけた画家夫妻に引き取られ、ネロの死さえまともに描かれていないのです。これははたして作者の本意になるものなのかというと正直言って何とも言えません。私はクリスチャンでもなければ、ルーベンスの絵に詳しいわけでもありません。宗教や教団が虚飾と欺瞞に満ちたものであるのは疑いの余地がありませんが、恐らくこの作者はそこを突っ込みたかったわけではなく、ネロを凍死扱いにしてしまうと日本みたいになあなあで済まされ、何となく都合よく忘れ去られてしまう。それがこの作者には断じて許しがたいことだったのかもしれないし、心を病んでいたとされるこの作者はどこかで人の善意というものを信じたかったように感じます。あてにはしていないし信じてはいないけれども、帰って来た人間嫌いとでも言うのでしょうか?どこかで人を信じたかった人なのでしょう。やはりネロの死は自殺でないといけない必然的な理由があると思うのですが、作者の意図まではよくわかりません。