三島由紀夫と川端康成の運命を決めたもの

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三島は不運でした。彼が市ヶ谷で決起する約1年前は学生運動のピークです。それから数か月後に大阪万博がありました。大阪万博で国民の関心は一気に生活の豊かさへとシフトしていったのです。三島は決して時流に疎い人ではなく、むしろ時流の最先端にいた人です。彼が市ヶ谷で決起したあの日は第一線の人たちが軍事演習で留守でした。なので三島の演説を聞いていたのは予備役の人たちでした。彼が早めに演説を切り上げたのは上空を飛ぶマスコミのヘリコプターの音に声がかき消されたからではありません。私はテレビで見ましたが、三島の声はかき消されるどころか、はっきり聞こえていたのです。ということは彼はこんな人たちに話しても無駄と判断したとしか考えられないのです。三島ほどの人でさえ、国民の意識の急激な変化には全く対応できなかったのです。三島の死後、約1年半後に師匠の川端康成が自殺しました。女中さんとの恋に破れたとかいう話があるようですが、まずそれはないでしょう。ありえないとまでは言いませんが、川端は幼少の頃から身内との縁が薄く、身内をたくさん見送ってきた人です。自らを葬式の名人と自嘲したほどです。72歳にもなって今さら失恋くらいで亡くなるような、そんなやわな人ではありませんよ。これまでずっと政治と距離を置いてきた川端が三島の死後から政治に関わるようになり、都知事選の応援演説をしたことはよく知られています。これはもう権力への執着とかではないでしょう。三島の影響に決まっています。弟子を死なせてしまったという川端の自責の念から生じた行動としか考えられないのです。実際、三島の霊が川端に会いに来て川端が彼を喜んで出迎えたという証言があります。真相はわかりませんが、私は事実だと思います。では三島の霊が川端を引っ張ったのかというとまずそれはないと思うんですよ。確かに三島からすれば、どうして盾の会の結成1周年のイベントに来てくれなかったのかとか、多少の恨み言くらいは言ったでしょうが、かといって年老いた師匠を引っ張るほどの怨恨が三島にあったとは思いませんし、そもそも三島とはそういう人ではないと思います。まして会いに来たのであれば、川端が自責の念に駆られていることくらいは察することができたはずです。それほどまでに鋭敏な三島が川端を引っ張ったとはまずありえないと思います。むしろ川端の方が自責の念に駆られるあまり、結果として三島に引っ張られるような形になってしまったのだと思います。三島の右傾化や行動や政治に対してあまりにも頑なだった川端の自責の念こそが、春が散る頃に亡くなった真相だと思います。
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