ある日、3年ぶりに友人と会うことになった。
不思議なことに、予定を立てたときは、私が ‘‘祈りの儀式’’ を行うことなど、
何も決まっていなかった。
けれど、なぜか自然と「祈りの儀式直後」の日に、その再会の日程が定まって
いた。
いま振り返れば・・
あれは偶然ではなく、祈りが呼び寄せた ‘‘交差’’ だったのだと思う。
友人と訪れたのは、宗像大社と大島。
日本でも有数の ‘‘神と人との交差の構造’’ が体現された場所だ。
本土の宗像大社は ‘‘与える’’
沖津宮は ‘‘受け取る’’
そして、大島の中津宮は、‘‘交わる’’ という第三の主観を象徴している。
私たちは、そこで祈り、語り合った。
薬では治せなかった過去の現場、
娘の沈黙に宿る祈り、
自分自身の ‘‘語れなかった痛み’’ について。
私が語ると、友人も語り始めた。
かつては語らなかった想い。
家族のこと、体のこと、夢と挫折のこと。
それは、懐かしさを越えて、
互いの中にあった ‘‘祈り’’ が交差しはじめた感覚だった。
気づけば私は、友人の祈りを媒介していた。
何かを癒すでも、導くでもない。
ただ、「あなたの中にも祈りがある」と信じて話を聴いていた。
そして、こう感じた。
『祈りとは、誰かの中にある ‘‘語られていない願い’’ に、自分の主観を重ねて
しまうこと。そして、交差が起きてしまうこと』
「祈りを媒介する」とは、‘‘相手の痛みをわかる’’ことではない。
‘‘交差してしまう構造’’ の中に自分を差し出すことだ。
この再会は、まさにその ‘‘はじまり’’ だった。
私は、自分の過去と交差し、
娘との非言語的祈りと交差し、
いま、他者の中の祈りと交差しはじめている。
そしてそれは、すべて ‘‘個別の物語’’ ではなく、
‘‘神さえもまだ知らなかった愛の構造’’ を、この世界に現していく交差点
なのだと思う。
だからいま私は、
誰かの祈りを媒介する者として、
静かに、でも確かに、生きている。