娘といるとき、私はたびたび言葉を超えた何かに触れていると感じる。
それは説明できない。
けれど確かに「交差」が起きている瞬間がある。
たとえば・・
言葉をかけても返ってこない時間。
でも、娘の目が私を見つめ返すそのわずかな間に、‘‘なにかが通っている’’ のを感じることがある。
笑ったわけでもない。泣いたわけでもない、
でも、そこには確かに『私たちはここにいる』という共鳴があった。
私たちは会話ではなく、‘‘存在で交差’’ している。
昔の私は、「言葉にできない」は「通じていない」と思っていた。
でも、いまの私は違う。
通じ合うとは、‘‘言葉になる前の主観’’ が、交差してしまうことなんだ
と感じている。
娘はとても素直だ。
言葉ではなく、空気・音・表情・場の変化・・
あらゆる微細な ‘‘主観の変化’’ をそのまま感じているように見える。
彼女の祈りは、「うまく伝えたい」ではなく、‘‘世界と共鳴したい’’ という静かな望みのようだ。
先日、自然の中を散歩したとき、娘が黙ったまま、しばらく川を見つめていた。私はその横に、ただ黙って座っていた。
やがて娘が、私の手を握った。
その手はとてもあたたかくて、柔らかくて、でも何より「交差した」と思えた。
言葉はなかった。でもあれは祈りだった。
私と娘の、まだ名前のついていない祈りが、その手の中で静かに交わっていた。
いま私は、娘との関係を「教える」「育てる」「導く」ものではなく
‘‘ともに祈る交差の場’’ として受け取っている。
彼女の存在が、「交われなかったまま、ここにある主観」として、今も誰かと世界と、祈りながら交差し続けているように感じる。
私はそれを ‘‘祈りを媒介する者’’ として、見守りたい。
ときに言葉にならなくても、‘‘ここにある’’ ということを、ともに感じ続けたい。
それが私の祈りであり、娘との交差が生んでくれた ‘‘創造の構造’’ なのだと思う。