❇️「わかる」ということの形について
ケーキは、切れます。
ピザも、なんとなく三等分できます。
でも、算数は、ずっと苦手でした。
子どものころ、数字を見た瞬間に頭の中がふわっと白くなることがありました。
指を折って数えて、ピザを思い浮かべて、具体的なイメージでなんとか理解しようとしたけれど、先生の黒板の「式」は、どこか遠い世界の言葉のように思えました。
あるとき、テレビで『ケーキの切れない非行少年たち』という本が紹介されていました。
“ケーキがうまく三等分できない子どもたちがいる”という話に、私はドキッとしつつ、少し戸惑いました。
——私はケーキなら切れるけれど、
それでも算数にはつまずいた。
これはどういうことなんだろう、と。
❇️自分の「知っている世界」からしか、ものごとは測れない
算数につまずいた自分を思い返すと、私はいつも「具体的なもの」でしか物事を考えられませんでした。
ピザ、ケーキ、ゆび、人の数、目に見えるもの、手で数えられるもの。
その「私にとっての現実」に照らしてしか、式も数も測れなかった。
でも逆にいえば、「現実感のある世界」から切り離された抽象には、なかなか橋がかからなかったということです。
「3 ÷ 4 = 0.75」と言われると、意味がわからなかった。
でも「3枚のピザを4人で分ける」と言われると、なんとなく「1人分は少し小さくなる」ことは分かる。
この「なんとなく」を、どうやって数式にするのかが分からなかったのです。
きっと、これは私だけじゃない。
人はそれぞれ、自分の「知っている世界」からしか物事を測れない。
それがときに、認知の“偏り”と呼ばれたりもするけれど、それは決して「欠陥」じゃなくて、「世界のかたち」の違いなのだと思います。
❇️「わかる」というのは、どこまでがその人の世界にあるか、ということ
“ケーキを切れない”という話は、単に手先が不器用とか、勉強が苦手とか、そういう話ではありません。
大事なのは、「その人がどんなふうに世界を感じているか」ということ。
そして、「その世界の外から押しつけられる『正しさ』が、どれほど遠く見えているか」ということです。
算数の世界も、私にはとても遠くに見えていました。
でも、「わからない」というその感覚自体が、私にとっての「世界の輪郭」だったんだと、今なら思えます。
❇️じゃあ、どうすれば「わかる」に近づけるんだろう?
それはたぶん、「世界を広げてもらうこと」だと思います。
責められるのではなく、急かされるのでもなく、
私の「知っている世界」のすぐ隣に、新しい「わかる」の入り口を見せてもらうこと。
ピザを分ける感覚を大事にしながら、
それを少しずつ、式や数に翻訳してもらうこと。
ゆびで数える自分を否定せずに、
「指を使っていいんだよ」と言ってもらえること。
誰かのそんなまなざしや言葉が、どれだけ自分の世界をあたため、広げてくれるか。
それを今、少しずつ感じられるようになってきました。
ケーキは切れる。
でも、それだけじゃわからないこともある。
それでも、私なりの「わかる」がある。
そして、誰かがそれを信じてくれるなら、
私は、もっとわかっていける気がするのです。