呼ばれる前から、もう、決まっているものがある
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コラム
放課後の廊下は、
昼よりも音が少なかった。
悠真は、凪の少し後ろを歩きながら、
その背中を見ていた。
——近い。
でも、触れない距離。
最近は、
この距離がいちばん落ち着く。
(前は、違った)
守らなきゃ、とか。
前に立たなきゃ、とか。
そう思っていた頃は、
逆に、息が詰まっていた。
凪が立ち止まる。
「どうしたの?」
「ん、ちょっと考え事」
嘘じゃない。
悠真は、
少しだけ間を置いてから言う。
「今日さ」
「“恋人”って言葉、聞いたでしょ」
凪は、驚いたように目を瞬かせる。
「……うん」
「俺ね」
「その言葉、嫌じゃなかった」
凪が、黙って聞いている。
「でも」
「今すぐ使いたいかって言われたら」
「そうでもない」
自分でも、
不思議なくらい落ち着いた声だった。
「名前をつける前から」
「もう、選んでる気がして」
凪は、ゆっくりと歩き出す。
悠真も、並ぶ。
「一緒に帰るって選択も」
「待つって決めるのも」
「離れないって判断も」
「全部」
「恋人っぽい、じゃなくて」
「ただ、そうしたかっただけ」
凪は、少しだけ目を伏せて笑う。
「それってさ」
「うん」
「もう、決まってるってこと?」
悠真は、少し考えてから答える。
「……たぶん」
言い切らない。
でも、逃げない。
そのバランスが、
今の自分たちには、ちょうどいい。
横断歩道で、
信号が赤になる。
人が行き交う中で、
一瞬、凪が見えなくなりそうになる。
悠真は、反射的に歩幅を合わせた。
凪も、同じように。
影が、また並ぶ。
——言葉はいらない。
呼ばれる前から、
もう、決まっているものがある。
悠真は、そう思った。
信号が青になる。
歩き出しながら、
凪が小さく言う。
「ね」
「もし」
「私が、その言葉を使ったら」
悠真は、すぐに答える。
「ちゃんと、受け取るよ」
凪は、安心したように息を吐く。
悠真は、胸の奥で思う。
——呼ばれる日を、待っている。
——でも、急がせる気はない。
恋は、
言葉で始まるものじゃない。
一緒に歩くことを、
何度も選んだ先で、
自然に呼ばれるものだ。
悠真は、
その日が来ても来なくても、
同じ速さで歩くと決めていた。
それが、
今の自分にできる、
いちばん確かな約束だった。