日本人は人生をカスタマイズすることを忘れている

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この写真・・どうなの・・?w  って感じですけど、まぁ人生設計ってことで・・w。昨日、通りを歩いていたら、子供が英語圏のひとに声をかけられて、インターナショナルスクールのイベントに親子でちょっと顔を出してきました。

黒人系の校長先生が、英語で娘と話しをしていて「これだけ話せることを考えても、このままうちの学校でやっていける子だ、ぜひ見学しにおいで」という話になりました。娘に念のため、意見を聞いてみると、もう絶対に日本の学校は通いたくない。とのこと。「日本人が嫌い、日本語も全部忘れたい!それくらい、大嫌い!私はあっちの先生や環境の方があってる。」
と言っていました。

そこまで嫌われる日本人って・・
「いや、日本語もさぁ、感情や奥行きがあって豊かな美しい言葉だよ・・。」とは言ったものの、・・娘の不満や怒りもわからないでもないのです。
娘が日本の学校のお友達を異常だと思う理由は、「自分の考えがないから。」だそう。お友達のいうことは、すでに誰かが言ったことを忠実に守るだけで、その中身を一旦自分で調べてみたわけでもないし(娘は辞典やnetで調べたり、ときに専門家に直接聞きに行く。)、そのことについて、自分で考えたわけでもない(娘は自分の意見をまとめてノートに書き留めている)。それなのに、自分より大きい存在が言ったことをそのまんま、周囲のひとの自由なやり方を侵してまで細かく口出ししたうえに、もっともらしい善悪を振りかざして強要し、それに個人が反発すれば集団の力で無理やり従わせようとする。そこに日本人の異様さ・異常さを感じるし、怒りを覚えているのだそうです。だから日本人、嫌いだ。って・・。

小学校低学年で、ここまで自分の考えや意見を持つということ自体がなかなか高度なことなので、娘のIQと早熟な精神年齢をさっぴいて考えなくてはならないのは間違いないでしょうが、これを聞いて日本育ちのわたしとパートナーは何も言えなかったのも事実。
このまま中学年、高学年に上がっても、中学でも高校でも、私立に行ったところで、日本の教育の状況は変わらないからです。

インターの先生方は、「うちはカルフォルニアに準拠してやってはいますが、一番特徴的なのは、自分で考察することを大事にし、他人とコミュニケーションをとる授業がほとんどであるということですね・・。」と言っていました。
知っている過去の解答事例はこれからはAIが出してくれる。
これから先の未来は、解答のないこたえを模索する人間の知能が図られる。
だから、海外ではもう詰め込み教育、軍隊式教育はどこもやってないんですね・・。異文化や多様な意見の中で個人を保つ訓練をする教育がメインです。

インターでも、一般的な日本人の親の日本の子供は、自分の意見を発言したり、他人とちょうど良いコミュニケーションを取るのがとても苦手なのだそうです。しかしうちの娘は、積極的に強い意志と意見を持って外国人と関わる。こういう子は、インターナショナルな学校向きだ、という話でした。
 そうそう、いつもの行きつけのカフェで、突然来年還暦を迎えるというおばちゃんがわたしに挨拶してきてびっくりしたこともありました。なんと、その方はわたしの知らない間に友達になって交流していた娘の友人でした。w
そんな風に、年齢・国籍関係なく、娘は友達を作って親を驚かせます。
そのおばちゃんも、「この子は、普通の日本の子供ではないわよねぇ・・心が開いていて、不思議な子!どう育てたの・・?」って笑っていました。

何が言いたいかというと、そんな娘がみた日本の学校の今は、外側の世界から日本を見たときの日本人についての印象そのまんまなんではないか、ということです。
日本人は、明治以来の全体主義の中で、駒として配置されすぎてしまっている。権威を疑わず、忠実な駒として動くように、教育されてしまっている。枠自体を疑わないし、枠からはみ出たときの社会的な見えない制裁が怖くて自由になれない。
全ての人間が、押しつけられたモラルと「牽牛星」的な生き方を良しとされて強制されているように感じるのです。牽牛星さんだって、この枠組み、自分には合わないな、と感じている人もいるはず。

算命学を学べば、牽牛星じゃない生き方を本質とするひとはそこら中にいると当たり前のようにわかる。つまりその人たちは、自分に嘘をついて生きているわけです。本当はやりたくない、おかしいと思ってる。だけども、はみ出て自由に生きたとき、社会からの目線や制裁が怖い。マスクで口を塞がれる前から、どうせ口はろくなことに使わなかった。どう自分たちの個人の権利を主張し、意見を言えばいいかわからなかった。それで人生が偽物になって動けなくなっている人が、それこそいまの娘の小学校の同級生たちのように多いはずなのです。

私が算命学の活用方法とその利点を世の中に伝えようと考えたのは、昨年5月の並木良和さんのセミナーを視聴したときでした。
これはそのとき、実際にリアルで参拝もした東京大神宮で、並木さんが神々のメッセージをおろして伝えたオンラインでのお話です。創造の神様たちがこれからのカオスの時代についてこのような内容を語っていました。

全ての人間が、本来の位置に戻ろうとしている。
例えてみれば、椅子がたくさん並んでいて、自分の椅子はあそこにある、と思ってるひとがいるとする。でもそこに違う人が座っていたら、自分のための椅子には座れず近くをウロウロするしかない。
すでにその椅子に座っている人にとっては、自分がその椅子に座るよりも、本来の椅子の持ち主が座った方が、何倍も世の中に対していい仕事ができるのに、そのひとは中途半端にできたがために、そこまでいれこめない仕事やポジションだけど安定性や見た目が良いからということで、その位置に居座ってしまっている。

世の中のすべての人間の位置がそんな椅子のようになってばかりだからこそ、この世の中は完全調和・真善美の中で公正な社会システムが稼働していかない。だから、全員が自分の本来の寝食忘れてやりたいこと、自分向きのことをやろうとして自分の場所に移動せよ。
・・そう神様が言っていました。
そのセミナーを受ける前に自分が受け取っていた夢のメッセージもまさに同じで、並木さんのセミナーはかぶるから、たまに参加するんですけど、その時にシンクロから受け取っているメッセージのエビデンスをもらったような気になりました。

セミナー中、移動のしかたについて、具体的な細かいことだけを並木さんは言っていたのですが、それを聞きながらわたしは「絶対に何を目的としてこういっているのか、伝わってないだろうな・・」と思っていました。
並木さんは、見える形や感覚は語っているのですが、いつも本質的に何を示しているのか中心に見えるビジョンをちゃんと言えていない、と感じたのです。
(いや、言えないのではなく言わないからこそ、彼が極端なことを人類に提案しても、人気稼業でやっていけるということで、それが意図的な彼のやり方なのかもしれないんですけどね。私は精神世界で表舞台に立つ人間ではないので、その立場で好きなことが言えるから言ってるだけなんですが。)

そもそもその本来の椅子とはどんなものなのか、どこにあるのか皆目見当がつかないひとたちが多い中で、これじゃあ、並木さんがせっかく意味あることを話していても、なにも得られない。
自分はその方法を知っている。と思った。
それが、この実学算命学の知恵ですね。
だから、私個人がどうということではなく、日本中に散らばっている全てのいろんな流派の鑑定士さんがどんどん働いて、このカオスの中で自分の位置を見つけようとする人たちの人生のお手伝いを誇りを持ってできたらいいと思ってるんです。

だって算命学鑑定士さんたちには、そのスキルがあります。
私が思うに、その価値を自分で気がついていないか、人に伝えていないか、だから知られていないだけです。
細木数子さんのように、一人で売れる必要なんてありません。
細木数子にみてもらわなきゃだめだ、有名占い師のなんとかさんにみてもらわなきゃダメだ、じゃ、バラエティが豊かすぎる大勢の普通のひとは、書籍からじゃ、恩恵を受けられません。カスタマイズされたアドバイスが必要なんです。
でも、算命学は学問ですから、基本的に誰がプロファイリングをやっても一定以上の結論は一緒。きちんと学んでいれば、結果の再現性もあります。
 だから風の時代は、算命学鑑定士さんたち全員が、国家資格のない士業としての自覚を持って、個人の人生を生かすため、新時代のために貢献していけばいい。と思ったんですよね。

だから同業者の方、わたしを算命学の新手のライバルとは思わないでくださいw。算命学という学問体系の存在意義の次元を底上げすることで、全員で勝っていきましょう。もはや地の時代の時みたいに、正当性を巡って派閥争いをしているときではないですよ。とわたしは言いたい。
なにより・・今、使わないで、いつ使うんですか、算命学!w
ってところに私たちは立っているんです。

自分の体得したものを実学算命学と銘打てば、私が何か主流と外れたことを言っても他の流派の方には、ご迷惑もかからないでしょうし。w
自分の人生をカスタマイズして、日本の教育洗脳から解放されていくことがどれほど自殺を減らすことになるか。
日本人自身が生きる喜びを手にしやすくなるか。

みんな、ではなく、自分を大切にする生き方を推し進めるための強力な人生の軍師として、活躍しましょうよ。

インターの先生と出会って、印象的だったのが、やってきた子供たちをどの子に対しても、ぎゅーっとどの先生もがあったかくつよくハグしていた姿でした。コロナ化で人との距離を、心の距離までも取ろうとする日本人と違い、ネイティブの先生たちは、身をもって子供達に触れ合いを表現してくれたんです。
なんだか、それにすごく心を打たれた、というのが正直な気持ち。

漂白化する社会に向かって、過剰な清潔にこだわり、型にはまり、自分の範囲を明確に切り分ける日本人のありかたとちがう有機的なコミュニケーションがそこにありました。
子供に本当に必要なのは、こういう愛だよな。
英語や文化とかそういうものはともかく、愛のある大人を自分の子供のそばへおいてやりたい。とわたしはそう思ったのでした・・。

















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