ADHDやHSPは、病名ではない。

記事
学び
日曜日から今年最後のスノボに行ってきました。
娘がナイターにも行ってみたいというので、普段なら寝る時間だったのですがそういう体験も悪くない。と夜中のゲレンデへ連れて行きました。
リフトに乗って後ろの娘に英語で「どうよ?」って聞いたら、
「空に宇宙があって、星があって、まるで月面着陸だね!!すごく素敵!」って英語で返ってきました。
確かに、灰色の月明かりに照らされたゲレンデに昼間ついたわだちが目立って、雪面の凹凸はまるで月面に見えました。
自分の娘ながら、すごいイマジネーションだなぁ、と思いました。

でも今こんな子供が、学校で居場所を見つけられないでいます。
私が子供の時も、確かに学校へ行けない子供はいました。そしてこういう子供たちは、社会の落伍者のような目線を浴びました。でもそれから20年以上が経って、その数は減るどころかさらに多くの子供が学校へ行く意味を見出せずに、学校へ行かなくなっています。

つまり、これは子供の側の問題じゃない。学校が子供たちから、三行半を突きつけられているんですよ。これほど多くの子供たちが学校を「こんなくだらないシステムにNo!(いらない!)」と言っているってことなんです。

例えばね・・娘が学校はおかしい、という理由の一つはこんな感じ。
「忘れ物をしたとき、忘れ物をした本人が一番困っているのに、なぜその子を後ろに立たせて恥をあたえるの。失敗して困っている人を助けないでなぜ、関係のない他人がさらに罰を与えるの?」
忘れ物をしたら先生が叱る、そして後ろに立たせる。うまくできなかったら叱る。娘はそのことを言ってるらしいのですが、皆さんは、どう思いますか。

日本では当たり前の教育の光景ですが、立場を変えてみてみてください。
大人が大人に同じことをやるでしょうか。
保護者会でペンを忘れた保護者を叱って、別な大人が後ろに立たせるでしょうか。
そう、娘は子供の人権が無視されていることに怒って、傷ついています。

そして、自分がされても嫌だし、他の子供が同じ目にあっているのを見たり、聞いたりしながらその時間を耐えるのも苦しい。と言っています。
そして日本の学校では、子供がお互いがルールを守っているかどうかを、友達同士で監視し、先生に報告し合うようになるのだそうです。
そして通報した子供は先生に良いことをしたと褒められる。
これが娘には耐え難いのだそうです。

日本の学校は明治時代からずっと同じことをやってきました。幼稚園始め、教育機関、学校内で、子供の人権がいまだに守られていません。
それどころか、日本では子供の人権は、親子間であっても守られていませんよ。子供の進路に口を出すとかね。大人対大人の関係性のなかでやってはいけないことは、子供に対しても当然やっちゃいけないんです。
親子問題をご相談される時いつも話しますが、やっぱり、そこから意識を変えていただきたいです。

そしてそんな環境で自分が悪いのだと思わされて追い込まれた、傷ついた元こどもたちが世の中にはたくさんいます。その中には発達障害として、レッテルを貼られた人たちがいます。
アスペルガー、ADD(多動性も含む)、HSP、これらは果たして、障害?病気でしょうか。私は違うと思います。

例えば、大人同士でも、あなたが誰かに「繊細だねぇ」と言われたとしたら、あなたはその相手に「鈍感だねぇ」って言えますか?
「何事も落ち着きがないねぇ」という相手に、「あなたこそ、無反応で、何事にもケツが重いねぇ・・」って、あなたは言えますか?

きっと、相手は怒り出すだろう、とおもうから、あなたは言えないと思います。ましてや、医療機関で障害の診断を受けていたらどうでしょうか。自分ができていないんだ、と自分の側の非を認める心境にならないでしょうか。
要するに、これらの病名は、肉体的な発達の速度の違いや感性の違いを認められない人たちからの、ハラスメントなんですよ。こどもに発達障害のレッテルを張ることはそれと同じことです。(※違いを知って、手助けをするために作るのならば、それも役にたつでしょうが、診断を受けたからといって理にかなった社会全体のサポートはほとんどありません。不利になるだけなのが実情です。)

実際にカナダのローカルな小学校の2年生の教室で、椅子に座って授業を聞かない子供がたくさんいるのは当たり前の光景だそうです。教室を歩き回りながらも授業に関心を持って関れば、それで良しとする。他の国でも、発達段階の違う子供達の学びのスタイルがそれぞれ認められている。異年齢で同じことを学ぶことも当たり前。飛び級もあれば、その逆も普通。それは個人の自由なんです。

 そもそも黒板の前に全員着席して聞く講義形式の授業なんてほとんどなく、個人の進度に合わせて、個人が学習する自律型の学習スタイルがメインです。
 なぜ、日本の学校は子供達にいつまでも心の暴力をふるいながら、軍隊式の教育を続けているのでしょうか。
 ニュージーランドで教師をやっていた日本の先生が、日本の教師の教育スキルはあまりにも低すぎる。そこで育った人間も世界基準で見れば、みんな幼稚な大人ばかりで、日本の未来が怖いと言っていました。

圧倒的多数の「規格」に合う人間が、「規格外」をはじくために、ADDやHSPを設けているんだ、というこのイリュージョンにそろそろみんな気がついて欲しいです。これらの病名はすべて、子供へのハラスメントなんです。
バラエティのある子供を「何か」使える道具にするのではなく、その子供達が卒業後、自分の人生を豊かにするために少しでも生きるのに役に立つタネを植えてあげることが、そもそも学校の役割です。どれだけの人数を有名大学に入れたかということが学校の良し悪しではないんですよ。

これらの病名が設定された価値観の陰には、「正常」という「こどもの規格」があるということに気がついてください。
生き物を規格化したら、工場の製品と同じです。
子供に、異常・正常なんてないです。

算命学の宿命のほかにどの子も魂レベルで、この世でのなにか目的を持って生まれてきています。ただ体験しにきている子供も含めて。だから当然持って生まれた肉体にもそれにそった多様性があります。なのに、勝手に外から刈り込まれたら、生きづらくなります。
跳び箱が飛べない子供は異常でしょうか。
でもその子は、絵は得意かもしれない。
Savan症候群などの例をみてもわかるように、もしかしたら、絵を得意にするために、他の能力が制限されているのかもしれない。

刈り込まれて、平均で言うことを聞きやすく、取り替えのきく人間だらけになって、喜ぶのは一体、誰なんでしょうか。
私たちをマスで支配する権力ですよね。
そう、私たちは、システムに飼われている。
マトリックスとはこの世のことなんです。

日本の学校は、「規格」を作り、その規格にそって子供がちゃんと生育しているかを管理者である教師が評価するところになっています。つまり、「養豚」や「養鶏」と同じ場所。命が自分のためにではなく、誰かに利用されるシステム。

そこに、馴染んでしまうこどものほうがむしろ危険ではないでしょうか。
そして親が成績表に一喜一憂するって、どうなんでしょうか。
たしかに、製品として優秀な評価をもらった子供は、将来、優秀な部品になれます。会社が欲しがる人材かもしれません。でもそれは、その子がその子らしい人生を送るのにとって、本当に喜ばしいことでしょうか。

人が人として生きるために、今、学校の在り方こそが「異常」なのだということに親が気がつかねばなりません。
とはいえ、私がそんなに人間愛にあふれた人間かというと、そうでもありません。w そこはお間違えなく。
あくまで私がこだわっているのは、人として「自然」かどうかなのです。
 軍略とは、そもそも人の動きを予測して、成果をあげる方法論ですから、人を利用する、システムを作ってまとめる、帝王のための学問です。
だからわたしの立場では、こんなことを言うのは、矛盾しているかもしれません。でも、だからこそ算命学は何のために使うのか、が大事だと思うのです。
己の小さな欲のために使うのか、平和をもたらすために、自由を得るために使うのか、動機次第で算命学がもたらす結果は、全然違います。
だから取り扱う人間の中身が問われた、一子相伝だったのでしょう。

さて先日、YoutuberのKevin's English roomのメンバー、やまちゃんの講演会に参加しました。
やまちゃんは、多言語を話すことができます。うろ覚えなのですが、日常会話レベル以上で話せる言語は7つ〜9つ、その他聞けばわかる言語が12ヶ国語とか、そんな感じなんです。
で、なぜ彼がそんなことになったのか、という環境が、ヒッポファミリークラブという非営利サークル(組織)にある。そのあたりはご自分で検索して見て欲しいのですが、彼が講演会で言っていたことが、これからの日本に必要なことだったのでみなさんにもご紹介します。

ダイバーシティとか、グローバルな人間とか、いろいろ言われているけれどもやまちゃんが多言語多文化に触れる環境の中で学び取った、国際人として大事な姿勢。

それが、「不完全であることに寛容であること」。
・・すごいと思いませんか。

日本では、なにか国際的な人間の規格があって、その基準を満たそうとして英語なり海外の文化なりを取り入れて、躍起になってきたわけですが、彼の言葉はその真逆なのです。

世界には多種多様なものがいる。世界の日常に触れると、お互いの違いを図る基準値なんて存在しないことに気がつく。
あるのは、自分から相手がどう見えるか、と言うだけで、混沌としたバラエティの中に浮遊するように存在する自分を発見する。
 世界をホームステイして歩くと、日本の基準では、ありえないようなはちゃめちゃな常識や突き出た人間なんてそこら中にいて、でもそう言う人たちもいて現実の世界を構成している。

多様性、グローバルであることは、不完全なものを不完全なまま許すという姿勢なのだということ・・・。彼が教えてくれたのはそういうことなんですよ。
日本の教育は、全く真逆だということ、気が付きませんか。
基準を作り、型から外れたものをはじく社会。

そんな人間が世界のカオスに出て行って、うまくやれるわけがないでしょう。
自分の(誰かに刷り込まれた)基準と規格の中で、見下すか、優越を感じるか、そういうジャッジメントでしか周りを測れないし、生きられない。
せいぜい海外でも日本人同士で固まって、日本人村のなかで暮らしていくことぐらいしかできないです。

もしも日本の政府が本気でダイバーシティやグローバルな人材づくりとかいうのなら、外国人をやとって子供に英語教育することを、国際人づくりだと思い込むことをやめてください。
それよりも日本の教師たちを、世界中の学校に送り込んでください。教師の学びのために、国がどんどん研修費用を出してください。一人の教師から巣立つ人間の数を考えたら、その影響力は計り知れない。
国は、もっと教師を大切にしてください。
人づくりは20年かかります。今からやらなければ、間に合わない。

現代は自分の価値観の中だけで暮らしていくことが可能な社会になっています。だから、変な人がいても変な人のまま受け入れる寛容性が日本から社会からどんどん消えています。だから、生きづらくなって、自殺する人が増えるのです。

その規格化への流れに居場所を見つけられずに抵抗する子供達がいて当然なんです。子供達の味方になって彼らを守るのは、大人の役割です。
子供が不登校でも学習障害でも、親子で自分たちに劣等感を持たないでください。本当に狭い日本村で苦しむくらいなら、自殺を図るくらいなら、それこそいろんな人が当たり前にいる海外にでてしまったらいいのです。

不完全さへの寛容・・やまちゃんには、いい言葉を教わりました。
やまちゃん、本当にありがとう!!
人を大切にする素敵な講演会でした。










サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す