アスリートはみんな一流になるために努力している、と誰かが言っていた。
自分の生き方との違いにハッとさせられた。
世の中に、一流になるための努力をやった人は何パーセントいるのだろうか。
そもそも一流になろうと思った人はどのくらいいるのだろうか。
一流を目指す、一流に憧れる。
私のこれまでの生活とは縁遠い。
私は常に「できない自分」で生きてきた。
「できない自分が私らしい」「できない自分を周りは求めている」
そう思って生きてきた。
だからちょっとうまくいきそうになれば手を抜き、失敗すると安心する。
失敗談を話すと「あなたらしいね」と言われ安心する。
ダメダメな自分が心地いい。
誰も私に「できる人」像を求めていない。
みんな私に「できない人」像を求めている。
だから私は「できない人」でいるために失敗し続ける。
でもそれは本当だろうか。
本当に、私の周りの人間は私に「できない人」を求めているのだろうか。
本当は、私に「できない人」を求めているのは、私自身ではないか。
「できない私、可愛いでしょ」「私はどうせできないから失敗は許されるよね」と根底では思っていて、その思いが態度に出る。
他人に「できない自分」を認めさせ、できない自分を許してもらっているだけなのではないか。
もしかしたら「こいつに期待しても無駄だという」諦めに近いのかも。
私は「できない自分」に甘えているだけなのかもしれない。
努力をしたくない、現実を見たくない、本当の意味で自分のできなささを見たくなくて「できない人」を演じているだけなのかもしれない。
でもいつまでも「できない自分」でい続けていたくない。
そう思った時、ふと自分の最期が頭をよぎった。
おそらく50年後。
ヨボヨボになったときに「若いときに頑張ればよかった」と思いながら、風呂なし木造アパートで眉間にしわを寄せて独りで死んでいる。
でも今のままの私で生きていたらきっとそうなる。
これまで逃げ続けたから私の最期はこんなもんだ。
でもできれば死ぬときは、キレイな病院の個室で、「この人生でよかった」と思いながら、大勢の人に別れを惜しまれながらがいい。
だったら今動くしかない。
今の自分の延長線上に見えた未来の自分の姿が嫌で、今の自分の生き方に疑問を持っているなら今行動するしかない。
死ぬとき、なにを思って死にたいか。
それを原動力にして生きてみてもいいんじゃないか。