気楽に読んでください、呼吸のおはなし ~その90~

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今日もお読みくださり誠にありがとうございます。
とうとう90回目となりました。今回もどうぞ宜しくお願い致します。
最近は傘の持ち歩き方の注意までがポスターになっていたりして、これは、マナーとかモラルの問題と言うよりかは、身体感覚の劣化だと思います。
エレベーターとか混雑した列車内とかでの荷物・バッグの持ち方や捌き方とか立ち位置とかの問題も全て同じ、身体感覚の劣化或いは欠如だと思います。
久し振りに呼吸を味わってみたくなりました。
読者のみなさんも良かったらちょっとやってみてください。
掌を上に向けている時と、下に向けている時、どちらが吸気を得やすいと感じますか。
暫くそのままの状態で居ると、どちらの方が体の中にたくさんの空気が入って来るように感じられるでしょう。
また、掌が上向きの時と下向きの時のそれぞれで、呼吸の為に反応している体の部位の優劣の分布に違いは感じられますか。
もう少し細かく感じて行きましょう。
どちらの方が首から肩に掛けての範囲が広くリラックスして感じるでしょう。
腰の辺りにも違いを感じるかも知れませんので、よく味わってみてください。
立ってやっても座ってやっても仰向けに寝転んでやっても構いません。
このようなほんの小さな感覚を味わうこと、これを共有するところから呼吸のワークは始めることが出来ます。
ここで大事なのは、感覚の共有には必ずしもなる必要は無いということなんです。それを最初から視野に入れてしまうと、共有では無く強制になってしまいますよね。
なので、味わうという試み辺りから徐々に共有して行くのが安全です。
そうまでしてどのように感じるかには自由を保障した上で、それでもこのようにして体の営みに対して物凄くシンプルに焦点を当てる程、動かし難い一つの答えに揃って導かれるということが出て来ます。
昨日言及させて頂いた本当の自由、それを改めて感じる為に、このように必然性を持って常に変わらず起こる体の反応というものを手掛かりに、それが起こる要因に付いて味わいを深めて行くことが更に重要となって来ます。
環境も含めた無数の諸条件が奇跡のように見事に重なり合って一つの命が誕生する訳ですから、その条件の打ち出す方向性に倣って、生きるというエネルギーは進行して行きます。
体の声にシンプルに耳を傾けるということは、そのエネルギーの方向性を再確認する作業と言えます。
この要点から分断された " 考え " に偏ることの危険性は世界の歴史や事件史がいくらでも実証してくれています。
神奈川県相模原市のやまゆり園で起きた事件などは、このような " 考え " に偏ることの典型として、いつまでも忘れることが出来ません。
きっと、どんなに歴史の古い宗教の教義のようなものであっても、それが一つの " 考え方 " という枠を超えられない限りは、生きているという感覚に直接訴えない限りは、このような事件の抑止力にはならない、容疑者を説得する術にはならない、そう思えてなりません。
さて、今回は冒頭から、掌が上向きの時と下向きの時での吸気の量、体の反応の差を感じることをやって頂いたのでした。
そしてそれには、この地球上に奇跡のように無数の諸条件が重なり合って見事に符合して誕生した命の結晶という存在である以上、どうにも動かし様の無い共通した答えがあると、そんなことまで述べて来ました。
体はどのようにして、大切な空気を取り入れようとしているでしょう。
その時に体が受け容れようとしているのは、単に空気だけなのでしょうか、それとも空気以外にも何かを待っているのでしょうか。
もし体は空気だけを取り入れたいのだとして、それでもどうしても同時入って来てしまうような何かは有るでしょうか、無いでしょうか。
体中の細胞に新鮮な酸素を届けるのが呼吸の意味だとするならば、掌の向きは、それを助けてくれる向きのままでずっと居れば良いという事なのでしょうか。
掌を返すことは出来ればしない方が良い、無駄な事なのでしょうか。
こういったことを、どうか頭では(なるべく)考えないようにして、とにかく体が既に出してくれている答えに気付いてあげるようにしてみてください。
そんなことを何度か繰り返している内、その内に、人に伝えたくて仕方なくなるような、そんな衝撃に見舞われるかもしれませんから。
今日も最後までお読みくださりありがとうございました。
また明日も、どうぞ宜しくお願い致します。

つづく

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