気楽に読んでください、呼吸のおはなし ~その89~

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皆様いつもありがとうございます。今回もどうぞ宜しくお願い致します。
決まったやり方に固定されない、お決まりのルーティーンを持たない、更にそのことに拘り過ぎていつも違った事をやらなければならないという考えにも固定されないで、その中に通底する何かに気付いて行こうとする、そんなワークを信条としています。
究めれば究めるほど言葉による説明からは遠のいて行くのが感覚の世界です。
しかし一方でこのような世界観が、常軌を逸したテロリズムのような、もう何でもアリということには決してならないということもいつかの記事でお伝えしました。
即興という世界観に中途半端に目覚めてしまうと、「だったらもう何をやっても許される」といったアタマ特有の屁理屈が必ず横槍を入れて来ます。
本来であればそういった暴走を阻止するのが呼吸に裏打ちされた「これ以上は削ぎ落しようが無い、" 命 " を中心に据えた人間に通底する感覚」となる筈なのですが、現実の世界では悲しいかなその代わりのような役割を六法全書や、もっと身近な所では、様々な取り扱い説明書とか『この施設をご利用の皆さまへ』とかいった看板に託す羽目になっています。
この世で自由に活動していられるその根本の根本には呼吸があります。
呼吸の停止が何を意味するか、それを体が智慧として昇華させていれば、世に溢れる読んでいて恥ずかしくなるような事細かな説明や注意書きの数々は、その殆どが必要の無いものと分かるでしょう。
このような流れは最早歯止めが利かないかのように、今度は「ここに禁止事項として書かれていないことは逆にやってもいいこと」となってしまい、項目が際限なく増え続けるという結果を招いてしまいます。
" 風が吹かば桶屋が儲かる " のようにたった一つの些細な事象から先を想像して見通す力で、" 自分一人が勝手にこんなことをすると先々で大変な結果を招いてしまう " といった、何手・何十手も先を想像して見通せない悲しい集団に、人間はこのままズルズルと成り下がってしまうのでしょうか?
本当の自由とは、人間の力の及ばない根本的・根源的な変えることの出来ない全ての事象・条件をのんだ上で初めて成り立つことです。
遠い遠いずっと先の結果としてでも、その根本原理に障害を与えるような行い振る舞いを、例えその時にどんなに楽しく感じていたとしても、それを自由とは言いません。
後で本人や本人の子孫が苦しむ結果を招くようなことを、本当の自由とは言えないのです。
お決まりの型を持たない、掴みどころの無い、そんな呼吸のワークには答えなど無いとも言えます。
が、明確な答えが、全貌が余りにも巨大過ぎて当たり前過ぎて見えていないかのようなシンプルな答えが、実はあります、全ての人の目の前にはっきりと。
便利な世の中の筈なのに、住み易い暮らし易い世の中とは一概には言えない、これっておかしなことだと思うのですが。
僕はそんな現状に一石を投じる意味でも、呼吸を通してメッセージを発信し続けたいと思うのです。
今日も最後までお読みくださりありがとうございました。
また次回も、どうぞ宜しくお願い致します。

つづく
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