沙希
電話は、いつも夜にかかってくる。
「ちゃんと食べてる?」
母の声は変わらない。心配しているのか、確認しているのか、いつもその境界が曖昧だった。
「食べてる」
「残業は?」
「ふつう」
「お父さんがね、今度帰ってきたらカニ鍋しようって言ってるんだけど」
沙希は窓の外を見た。
十一月の夜、マンションの向かいの棟に、いくつか電気がついている。
誰かが今日も、同じ時間に帰ってきて、同じ部屋に灯りをともしている。
「お母さん」
「なに?」
「会社、辞めようと思ってる」
電話の向こうが、静かになった。
沙希は二十八歳で、六年間同じ会社に勤めていた。
保険会社の事務職。
安定しているとよく言われた。
福利厚生がいい、休みが取りやすい、離職率が低い。
でも沙希は、毎朝、会社に行くたびに、
胃のあたりが少しだけ固くなることに気づいていた。
最初の一年はわからなかった。
慣れれば変わる、と思っていた。二年目も同じだった。
慣れてきた、と思っていた。
三年目に入ったとき、沙希は初めて気づいた。
胃が固くなることに、慣れた。
それだけだった。
写真を始めたのは、入社二年目の春だった。
最初はスマホで、次にカメラを買った。
休日に一人で街を歩き、光の入り方が面白い路地を探し、
誰かの後ろ姿や、濡れた石畳や、閉まったシャッターを撮った。
うまくはなかった。
でも、撮っているとき、胃が固くならなかった。
フォトコンテストに応募するようになったのは去年のことで、二度、入選した。
小さなものだったけれど、選評に「光の使い方が独特で、静けさの中に体温がある」と書いてあった。
その言葉を、沙希はスマホのメモに保存した。
今も、たまに開く。
会社を辞めてフリーランスになりたい、とはっきり決めたのは、先月だった。
決めたとき、胃が固くならなかった。
「辞めるって、急すぎじゃない」
母の声は静かだった。
怒っているわけではない。
でも、何かが固まっていく気配があった。
「急じゃないよ。ずっと考えてた」
「次は決まってるの?」
「フリーランスで写真やろうと思って」
「……写真?」
「うん」
「趣味で?」
「仕事で」
また、間があった。今度は少し長かった。
「沙希、それ、毎月いくら入るの」
沙希は答えなかった。
入らない、が正直なところだった。
最初の一年は貯金を削る、それしか考えていなかった。
でも、入らないことは、やらない理由にならないと思っていた。
「今の時点で、いくら残ってるの」
「いま言うと、やめたくなるから」
短い沈黙があった。
「とにかく、帰ってきて」
電話が切れた。
スマートフォンを画面が見えないよう伏せた。
指先がまだ熱かった。
口の中が乾いて、唾を飲み込んだ。
窓の外を見た。
向かいの棟の電気が、一つ消えた。
敬子
電話を切ってから、敬子はしばらくキッチンに立ったままでいた。
シンクの中に、夕食の洗い物が残っていた。
鍋と、二人分の皿。
夫の哲夫はもうリビングでテレビをつけている。
いつもの、十時のニュースの音。
写真で仕事、と沙希は言った。
敬子は蛇口をひねった。
水が出る。
温度が上がるまでの間、敬子は洗い物に手をつけずに、流れる水を見ていた。
敬子が二十二歳のとき、デザイナーになりたかった。
大学で建築を学んでいた。設計の授業が好きだった。
空間を、まだ存在しないものをゼロから考える、あの感覚が好きだった。
卒業設計で作った小さな図書館の模型を、今でも押し入れの奥に持っている。
就職活動の時期に、母に言われた。
「女の子が設計事務所に入っても、続かないわよ」
根拠のある言葉ではなかった。
でも、根拠がなかったから反論もできなかった。
そういうものか、と思った。
設計事務所に内定をもらっていたが、断った。
代わりに、安定した会社の事務職に就いた。
二十六歳で哲夫と結婚した。二十八歳で沙希を産んだ。
後悔しているか、と問われれば、わからない。
ただ、今でも、街で面白い形の建物を見ると、立ち止まる癖が残っている。
洗い物を終えて、リビングに戻った。
哲夫がソファで眠っていた。リモコンが膝の上にある。
敬子は音量を少し下げて、哲夫の隣に座った。
「沙希から電話あったよ」
哲夫が目を開ける。「ん、なんだって」
「会社辞めるって。写真で食べていくって言ってた」
哲夫は少し考えるような顔をしてから、「そうか」と言った。
「そうか、って、それだけ?」
「まあ、あの子のことだから、考えてるんじゃないの」
「考えてるって、でも写真で仕事って、どういうこと。病気したらどうするの」
哲夫はまた少し間を置いた。
敬子が話しているとき、哲夫はすぐに返さない。
それが昔は答えを考えているのだと思っていたが、最近は少し違う気がしている。
ただ、急がないだけかもしれない。
敬子はそれが少し羨ましかった。急がないでいられること。
「敬子は、沙希に何になってほしかったの」
「何、って。ちゃんと生きてほしかっただけよ」
「ちゃんとって?」
敬子は少し止まった。
「……食べていけて、無茶しなくて、困らないように。それだけよ」
「まあ」哲夫は目を閉じながら言った。
「やりたいなら、やらせてみればいい。
ダメだったらまた働くだろ。」
「そんな簡単に言うけど」
「まあな」
哲夫はそれきり黙った。
敬子はテレビを見た。
ニュースが終わって、天気予報になっていた。
手の中に、まだスポンジの感触が残っていた。
洗い物をしながら、力が入っていたことに気づいた。
沙希
十二月の最初の土曜日に、沙希は実家に帰った。
新幹線の中で、カメラを膝の上に置いていた。
撮る予定がある訳じゃない、ただ持っていたかった。
窓の外を雪が舞い始めて、沙希はそれをしばらく眺めた。
撮らなかった。
実家の玄関を開けると、蟹鍋の匂いがした。
母が廊下に出てきた。「お帰り」と言った。
いつもと同じ声だった。
夕食の間、会社の話は出なかった。
父が蟹の食べ方について持論を展開し、
母がそれを半分流しながら汁の味を調整し、沙希はどちらにも相槌を打った。
いつもの食卓、変わらない感覚。
食後、父はリビングで眠り始めた。
沙希と母だけになった。
「写真、見せてもらえる?」
母が言った。
沙希は少し驚いた。
てっきり、説教から始まると思っていた。
「……いいけど」
スマートフォンを取り出して、フォルダを開いた。
コンテストに出した作品から、最近撮った習作まで、百枚ほど入っている。
母に渡した。
母は黙って、一枚ずつ見ていった。
速くも遅くもない。
スワイプするたびに、少しだけ止まる。
次に進むとき、何かを置いていくみたいな間があった。
十分ほどして、母がスマートフォンを返した。
「入選したやつ、どれ?」
沙希はフォルダを戻して、二枚を並べて見せた。
どちらも、都市の片隅を撮ったものだった。
古いビルの非常階段、窓から差し込む夕方の光。
「この光、どうやって撮るの」
「タイミング。同じ場所に何度も行って、待つ」
「何度も行くの」
「うん。十回くらい行ったやつもある」
母はまた写真を見た。
「面白いね」
沙希は母の顔を見た。
お世辞を言う人ではなかった。
面白くないものを面白いと言うより、黙る人だった。
「……そう?」
「うん。なんか、しずかなのに、生きてる感じがして」
沙希は何も言えなかった。
選評とは違う言葉だった。
でも、似たものを指していた。
母がそれを見つけたことが、うれしいのか、くやしいのか、うまく判別できなかった。
「でも」と母が続けた。
やはり来た、と沙希は思った。
それが母のいつものパターンだ。
胃が固くなった、会社に行くときと似てるもの。
私の最近のパターンだ。
「……でも、生活は?」
「最初は厳しいと思う。
でも、アシスタントの仕事とか、商業の撮影とか、段階的にやっていけると思ってる」
「貯金は?」
「一年は生活できる分はある」
「一年で食べていけるようになるの?」
「わかんない。でも、やりたい」
母が黙った。
「お母さんは、わたしに困ってほしくないんだと思う」沙希は言った。
声が少し低くなった。
「それはわかる。でも、ずっとしんどい思いして仕事を続けるの、わたしにはもう無理なんだよ。」
「毎朝、会社に行くとき、少し胃が固くなるんだよね。六年間、ずっと」
言葉にすると、自分でも少し驚いた。
誰かに言ったのは、これが初めてだった。
母の顔が、少し変わった。
敬子
胃が固い。
その言葉を聞いて、敬子は自分の二十八歳を思った。
保険会社の事務職。
清潔なオフィス。
毎朝、同じ電車で通った。
胃が固くなる、とは思っていなかった。
ただ、毎朝、家を出るときに、一度だけ深呼吸をしていた。
あれは何だったのだろう、と今になって思う。
「設計事務所の内定、断ったこと、お母さん、後悔してる?」
沙希が突然、聞いた。
敬子は少し驚いた。
話したことがあったか。
沙希に話したことは、なかった気がした。
「話したっけ、そんな話」
「お父さんから聞いた。昔」
「お父さんが」敬子はリビングを見た。
哲夫はまだ眠っている。
「余計なことを」
「後悔してる?」
敬子は、少し考えた。
正確に答えようとした。でも、正確に、という言葉自体がすでに嘘くさい気がした。
「……後悔してるかどうか、よくわからないのよ」
「うん」
「あのときは、断るしかなかったんだと思う。断らないで行く自分が、想像できなかった」
「でも、続きがある?」
敬子は沙希を見た。
するどい子だ、と思った。
昔から、言葉の隙間を読む子だった。
「……今でも、面白い建物を見ると、立ち止まるの」
「そうなんだ」
「設計の仕事をしていたら、って想像することが、たまにある。
でも、今の暮らしが嫌ってわけじゃない。ただ、たまに考えるだけ」
その言葉を口にしながら、敬子は少し軽くなった気がした。
今まで誰にも言ったことがなかった。
哲夫にも、沙希にも。
「お母さんが沙希に、ちゃんと生きてほしい、って言うのは、そこから来てるの?」
敬子は少し止まった。
「……そうかもしれない」
「だったら」沙希が静かに言った。
「わたしにとっての、ちゃんと生きる、が、写真かもしれないよ」
敬子はしばらく、沙希の顔を見た。
言い返したかった。
「写真と建築は違う」
口から出てしまってから、しまった、と思った。
沙希は何も言わなかった。
スマートフォンを握り直して、画面を一度消した。
敬子は黙った。
言わなければよかった、とすぐに思った。
でも、言った言葉は戻らなかった。
二十八歳の沙希は、二十八歳の敬子と、顔が少し似ていた。
目の形と、口を閉じたときの線。
でも表情は違う。敬子はあのころ、こんな顔をしていなかった。
決まっている、という顔だった。
「失敗したら?」
「戻ってくる。また考える」
「戻れる場所があるの?」
「わからない。でも、戻れなかったら、また別の場所を探す」
「怖くないの?」
沙希はすぐに答えなかった。
「怖いよ」沙希は言った。
「でも、やるって決めた」
敬子は窓の外を見た。
外は暗くて、雪がまだ舞っていた。
設計事務所の内定を断ったとき、誰かに、怖くないの、と聞いてほしかった気がした。
聞かれなかった。誰も聞いてくれなかった。
敬子自身でさえも聞かなかった。
怖いか怖くないか、確認する前に、決めてしまった。
沙希は怖い、と言えた。
その上で、やると言った。
それだけのことが、なぜか敬子には大きく見えた。
同時に、怖かった。
沙希が帰ってくる場面が浮かんだ。
玄関に荷物を置いて、何も言わずに部屋に入っていく沙希の背中。
その場面が、なぜかとても具体的だった。
敬子は自分の手を見た。
膝の上で、指が少し白くなっていた。
「わかった」と敬子は言った。
沙希が顔を上げる。
「全部わかったわけじゃない。写真で食べていけるのか、わからない。心配がなくなったわけでもない」
「うん」
「でも、止められないのもわかった」
沙希は何も言わなかった。
「一つだけ聞いていい?」
「うん」
「あの写真、また見せてくれる? 入選したやつ」
沙希がスマートフォンを渡した。
敬子は、もう一度、二枚を見た。
非常階段。夕方の光。
しずかなのに、生きてる感じ。
自分がさっきそう言ったとき、嘘をついた気はしなかった。
うまく説明はできないが、見えた、という感覚があった。
それが何なのか、敬子にはまだわからなかった。ただ、見えた。
「これ、好きよ」
敬子はスマートフォンを返した。
沙希が「ありがとう」と言った。
リビングで、哲夫がくしゃみをして目を覚ました。
沙希
帰りの新幹線の中で、沙希はカメラを取り出した。
窓の外は夜で、景色はほとんど見えなかった。
ガラスに、車内の灯りが反射している。自分の顔が、薄く映っていた。
シャッターを切った。
暗くて、ぼんやりした写真だった。
自分の顔と、窓の外の暗さと、遠くに流れる光の点がいくつか。
うまくはなかった。
でも、撮った。
スマートフォンに母からメッセージが届いた。
「気をつけてね」
それだけだった。
沙希はしばらくその文字を見た。
それから、「うん」と返信した。
窓の外で、また雪が降り始めていた。
敬子
沙希が帰った夜、敬子は押し入れを開けた。
奥の方に、段ボール箱があった。
開けると、大学時代のものが出てきた。
教科書、スケッチブック、そして一番奥に、卒業設計の模型が入った箱。
それを取り出す。
小さな図書館の模型だった。
白いスチレンボードで作った、二十センチ四方ほどのもの。
光を取り込むために、屋根に細いスリットを入れてある。
持ってみると、思ったより軽かった。
当時の先生に、「光と影の使い方が独特だ」と言われたことを思い出した。
敬子はしばらく、その模型を手の中で持っていた。
沙希の写真の、あの光。
非常階段に差し込む夕方の光。
似ている、と思った。
敬子が好きだったものと、沙希が好きなものが、
全然違う形をしているのに、どこかで似ている気がした。
血のせいかどうかはわからない。
ただ、面白い光の入り方を見ると立ち止まる癖が、
沙希に渡っていたとしたら、と思うと、敬子は少し変な気持ちになった。
うまく名前のつかない感情だった。
悔しい、ともちょっと違う。
嬉しい、とも少し違う。
自分が地面に埋めたものが、別の場所から芽を出しているのを見たような、そういう感じだった。
それを止めようとしていた。
埋めたのは自分なのに。
模型を、棚の上に置いた。
押し入れにしまわずに、見えるところに。
自分のためか、沙希のためか、よくわからなかった。
たぶん、どちらでもなかった。
ただ、仕舞いたくなかった。
翌朝、哲夫が模型に気づいた。
「それ、昔作ったやつか」
「うん」
「久しぶりに出したな」
「なんとなく」
哲夫はコーヒーを飲みながら模型を見た。
「沙希、元気そうでよかったな」
「そうね」
「会社辞めること、認めたのか」
「認めた、っていうか」
敬子はトーストを皿に置いた。
「沙希が決めたことだから」
「敬子が反対しなかったの、珍しいな」
「反対したって意味ないって、気づいただけよ」
哲夫が笑った。
「それが一番難しいんだぞ」
敬子は「そうかしら」と言いながら、コーヒーを注いだ。
翌年の春、沙希は会社を辞めた。
最初の半年は、想定より厳しかった。
アシスタントの仕事は断続的で、商業の撮影も少なかった。
貯金が予定より早く減っていった。
でも、胃は固くならなかった。
九月に、少し規模の大きいフォトコンテストで、奨励賞を取った。
副賞として、小さな個展を開く機会をもらった。
沙希は母に連絡した。
来る、と母はすぐに返信した。
個展は、都内の小さなギャラリーで、十日間だった。
開幕の日、敬子は電車で一人でやってきた。
白い壁に、沙希の写真が並んでいた。
非常階段の光、濡れた石畳、人のいない商店街の朝。
どれも、誰もいない場所を撮ったものだった。
でも、どこかに人の気配があった。
敬子はゆっくりと歩いた。
一枚の前で、足が止まった。
古いビルの一室を外から撮った写真だった。
窓に夕方の光が当たっていて、光の角度が、建物の中に影を作っていた。
その影の形が、まるで誰かが立っているみたいだった。
誰もいない。
でも、いる気がする。
敬子は、建築の授業で習ったことを思い出した。
光と影は、空間を作る。光が入ってくる場所には、人が集まる。
沙希はそれを、知らないまま撮っていた。
「どれか好きなのあった?」
沙希が隣に来た。
「この写真」敬子は言った。
「光の入り方が、好き」
沙希が写真を見た。
「これね、四回行って、ようやく撮れた」
「四回」
「光が当たる時間が決まってて、曇ったらだめで、タイミングが難しくて」
敬子はその話を聞きながら、スリットから光を取り込む屋根の設計を考えていた昔の自分を、なんとなく思った。
違う仕事を、同じ場所から始めている。
「いい写真だよ」と言ったら、素直にそう思ったから言った。
沙希が「ありがとう」と言った。
電話のときとも、実家で話したときとも、少し違う声だった。
帰り道、敬子は駅に向かって歩いた。
夕方の街に、光と影が混ざっていた。
面白い光の入り方をしている路地があった。
敬子は立ち止まった。
スマートフォンを取り出した。
撮るか、撮らないか、一瞬だけ迷った。
でも撮った。
正直、よくわからない。でも、撮った。
電車の中で2駅過ぎた後で、それを沙希に送った。
しばらくして、返信が来た。
「光、きれい。お母さん、センスあるね」
敬子は笑った。
電車のドアがゆっくり開いて、光が差し込んできた。