インナーチャイルドが「効いてしまう」理由と、
そこに潜む構造的な危うさ
インナーチャイルドワークは、確かに効果を感じる人がいます。
長年動かなかった感情がほどけたり、
心が軽くなったと実感する人も少なくありません。
私自身、そのような体験をしたことも目撃したことも何度もあります。
だから、この技法を単純に否定することは、正直ではないと考えています。
ただ、それがなぜ効くのか、
そしてどこに着地するのかはよく観察したほうが良いと思います。
インナーチャイルドは「記憶」ではなく「物語」を扱っている
インナーチャイルドワークで起きていることは、
過去の出来事を正確に思い出す作業とは違います。
多くの場合、
誘導瞑想
イメージワーク
セラピストの問いかけ
を通して、
一つの「理解しやすい構図」が形づくられていきます。
それは記憶の発掘というより、
現在の苦しさを説明するための物語が組み立てられていく状態に近い。
実際には起きていなかった場面や、
曖昧だった感情が、
意味の通る物語として再構成される。
ここで扱われているのは、
事実そのものというより、納得できる物語です。
「なかった事実」でも救われてしまう理由
人は、理由のない苦しさに耐えるのがとても苦手です。
なぜ私はうまくいかないのか
なぜこんなに動けないのか
なぜ同じところで止まり続けるのか
この問いに「過去に原因があった」という説明がつき、
心は一気に楽になる。
インナーチャイルドワークは、
この欲求にとても誠実に応えるように思えます。
説明の仕方はいろいろありますが、過去を変えれると言われるから。
私が悪かったわけではない
あのときは無力だった
傷ついた子どもが今も残っている
こうして苦しみに意味が与えられると、
今の自分を責める・否定することもなくなります。
そのために、
事実であるかどうかは二次的になる。
事実でなくても、
事実のように感じられる体感があれば足りてしまう。
構造的な問題は「原因の探し方」
問題は「癒えたかどうか」よりも、
原因をどこに、どのように探しに行く設計になっているか。
インナーチャイルドワークでは、
現在の苦しさの原因を、
ほぼ必ず「過去」に求めます。
しかし、そこで扱われる過去は、
事実かどうかは関係ありません。
記憶は再構成されやすく、誘導や解釈の影響も強く受けるものです。
にもかかわらず、
感情が動いた
腑に落ちた
という「実感」が、
事実であるかのように受け取ります。
その結果、回復のプロセスが、
検証できない物語の上に固定されることがある。
妄想であっても楽になればいい、結果良ければという考え方も理解できます。
そこで終わって幸せに過ごせました、であれば。
ただ、そこから抜けられなくなる人がいることを考えると、
それを普遍的な方法として勧めることには、
やはり慎重であるべきだと思うし、リスクを言わない方が多すぎると思います。
副作用として考えれること
少し踏み込んで考えれば、
実際に起こりうる「副作用」のようなもの。
過去に原因を固定しすぎると、
「私は傷ついた側なのだから、配慮されて当然」
「分かってもらえない相手が悪い」
「ずっと理不尽な扱いだった」
という感覚が、
無意識のうちに残ることがある。
これは悪意がないとしても、被害者の立場が固定化されると、
現在の人間関係や選択に、微妙な歪みが生まれやすくなる。
それでも「効く」ことは確かにある
ここは強調ます、事実として。
インナーチャイルドが効く理由は、確かに存在する。
抑えてきた感情を安全に表に出せる
苦しみが一つの意味にまとめられる
心を支える外付けの軸が一時的にできる
人は、意味が通った瞬間に安堵する。
それが真実かどうかより、
意味として機能するかどうかが重要な場面は確かにある。
今の自分を肯定することにつながる。
だから、楽になる。
「癒し」と「自由になること」は同じという訳では
インナーチャイルドが提供しているのは、
多くの場合、状態の改善です。
けれどそれは、
自分で自分の人生を引き受けられるようになった、
ということと必ずしも一致しない。
癒えた感覚と、
自立して生きていく感覚は、別のもの。
「無意識を書き換える」という発想
よく聞く「無意識を書き換える」という言葉も、
少し立ち止まって考えてみてください。
この考え方は、
自分では分からない
だから無意識を操作する
結果が出たら成功
という前提の上に成り立っている。
けど、
観測していれば、それはもう無意識ではないですよね。
自覚が進むほど、
「書き換えた」という感覚は無くなるでしょう。
僕が考える現実的な実践方法
派手さはないし、即効性も乏しい。
でも、確実だと考えています。
今、自分が何を考え、何を感じているのかをそのまま観る。
過去に自分が言ったことや、してしまったこと。
誰かが自分に対して冷たい言葉を投げかけた記憶や
誰かに対して思いやりのない態度をとってしまった記憶が、
ふっと浮かんでくることがある。
心がざわついて、落ち着かない。
まるで「今ここで起きていること」のように感じられてしまう。
「何が起きているか」を正しく観る
思い出した出来事そのものは、今、起きていません。
過去の出来事を、今この瞬間の「真実」として扱ってしまうと、そこに違和感が出る
とは言っても、心がざわつく感覚、悲しい想いは確かに今起きている。
起きている事実は
・過去の出来事を思い出したという事実
・落ち着かない感覚が生じているという事実
過去の出来事が本当にあったかどうかは、ここでは関係がない。
過去はもう過ぎ去っていて、検証のしようがない。
私たちは過去ではなく、『過去を思い出している私』を観ている
多くの場合、過去の出来事を、まるで史実のように扱ってしまう。
けど、実際に起きているのは、
「過去の真実」が立ち上がっているのではなく、
思い出したことを「真実だと考えている私」がいるということ。
記憶は、いくらでも改ざんされる。
人間の記憶は、そういう性質を持っている。
だから、どんな記憶であっても、
思い出しているという事実
それによって感情が動いているという事実
この二つだけが、今ここで起きていて、それを生み出している「私」がいる。
そこを丁寧に観て知っていくだけ。
「思い出したくないのに、急に出てきた」と感じることもあるでしょう。
けど、よくよく観てみると、
どこかに「思い出したい私」がいます。
もし「急に出てきた」と考えている私がいるなら、
まずはその考えている私を観ること。
過去が勝手に襲ってきているわけではないということです。
大切にしたいのは、あるものを、ないように扱わない。
真実でないものを「真実だ」と信じ込まない。
ここで言える真実。
「今、私がそれを真実だと思っている」ということ。
過去が本当にそうだったかどうかは分からない。
違って見えている可能性はいくらでもある。
今、目の前に椅子があるとしても、
それが「本当にあるかどうか」は分からない。
でも、「椅子があると感じている私がいる」
このことだけは確かです。
この「そうしている私」を知ること。
否定したくなる私も、ただ観ていく
もし、思い出したことで
また自分を否定したくなるなら、それも同じようにしてください。
それは「否定している私」がいる、というだけのこと。
否定をやめる必要はないし、肯定する必要もない。
ただ、そうしている私がいるという事実を知るだけ。
自由は影響を受けないこと
こうして続けていくと、そこから自由になっていく。
自由というのは、「過去を忘れること」ではありませんし、作り替えることでもない。
忘れて気にならない、過去をやり直して楽になるのは作られた自由。
本当の自由は、
それがあっても、なくても、私に影響しない状態。
今、辛いから思い出す。
今、気にしているから思い出す。
つまり、辛いから、気にしている私が先です。
こういうものが出てきても「嫌だな」「なんとかしないと」ではなく、
次の段階に進むために必要なものかもしれません。
苦しむ必要はない
乗り越えようとするのも、そう考えているから。
そう考えていると、苦しくなると思います。
そう考えた「私」を、よく知ってみたら、
その私は、いつのまにか消えている。
いつの間にか乗り越えています。
「大きな私」
私を知るというのは、
良い私だけを認めることではなくて、全部を認めることだ。
それには、その感情よりも大きな視点で観ることになります。
だから、今より大きな私になっていく、ということです。
結果、影響されなくなる。
これは理屈ではないので、考えているだけでは分からない。
実際にそうなってみて初めて、
「ああ、確かにそうだな」と分かる。
もし、これを読んで
「少し分かる気がする」と感じたなら、実際にやってみてください。
なぜこの地味な方法が、一番早いのか
中間に誰も入らない
失敗がそのまま学びになる
続けるほど、判断の軸が自分に戻る
地道なダイエットより、
簡単で楽な「無意識を書き換える」というサプリの方が、欲しくなります。
効かないとわかっていても使いたくなります。
そんな私がいたら、ただ観てください。
インナーチャイルド誘導瞑想は、
真実を思い出すための技法ではない。
今を引き受けるのがつらいときに、少し肩代わりしてくれる装置。
それが必要な時期も、有効に働くことも確かにあります。
ただ、自由になりたいなら、
最後に戻ってくるのは、派手ではない作業しかない。
今、何を感じているのか。
何を考えているのか。
それを誤魔化さずに知っていくこと。
効くことと、自由になることは、やはり違うと考えます。