「お金が欲しいと思うと罪悪感がある」
「私なんかが求めちゃダメって、思ってしまう」
「自由になりたいはずなのに、自由が怖い」
そんな感情が、心の奥に静かに沈んでいた。
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欲しいと思っただけで、溢れるように罪悪感が出てくる
「お金が欲しい」「自由になりたい」
そう思った瞬間、胸の奥からひゅっと何かが引き込むように痛くなる。
まるで「その願いを持った私が“間違い”」であるかのような、深く、静かで、どろっとした罪悪感。
「私なんかが」
「私なんかが欲しがっちゃダメ」
「私なんかが自由になろうとしちゃダメ」
この“私なんかが”という声は、
ずっと昔に母親の言葉として身体に刷り込まれていた。
「お前にはまだ早い」
「そんなの必要ない」
「欲しがるなんて、わがまま」
子どもだった私は、「欲しい」と言うたびに否定された。だからいつの間にか、「欲しい」と思うだけで、自分を責めるようになっていた。
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本当は、自由になりたかった。でも自由が怖かった
「お金を持って自由になりたい」
そう思ったことは何度もある。
でもそのたびに、
「私にはその資格がない」
「間違えるかもしれない」
「自由になったら罰が来るかもしれない」
という感覚が襲ってくる。
それは、子どもの頃の私が「母親のルールに従えば怒られない」「従えば守られる」と、
生き延びるために学んだ知恵だった。
自由を選ぶ=母の支配を離れる、ということだった。
でもそれは同時に、「罰されるかもしれない」「愛されなくなるかもしれない」という、命に関わる恐怖でもあった。
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大学進学でも、自分の願いを選べなかった
自由が怖いという感覚は、大人になっても私を縛り続けた。
大学進学のとき――
私は本当は行きたい学科があったのに、親の顔色をうかがい、親が望む学科を選んだ。
「自分の願いを選んだら、何かが壊れる」
「選んだ責任は、全部自分が背負わなきゃいけない」
そう思っていた。
だから、選ばなかった。
本当の自分の願いを、自分の手であきらめた。
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私は、欲しいものを“諦めること”で安心していた
「間違えるくらいなら、欲しがらない方がいい」
「拒絶されるくらいなら、願わない方が楽」
「どうせ叶わないから、最初から無かったことにしておこう」
こうやって私は、
願いを“欲しがらないことで封印し、罪悪感を感じずに済むようにしてきた”。
でもそれは同時に、
「本当の私の命の声」をも閉じ込めることだった。
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封印をほどく第一歩は、「欲しい」と言ってもいいと認めること
教えてもらったのは――
「欲しい」と感じた瞬間に刺さる罪悪感は、
過去に誰かから刷り込まれた“恐れの記憶”であって、私自身の声ではないということ。
罪悪感は、追い出すものではなく、
「ずっと守ってくれてありがとう」
「でも、もう自由になってもいいんだよ」
と、やさしく伝えてあげる存在。
「私は、お金を受け取っていい」
「私は、自由を選んでいい」
「私は、もう誰かの顔色じゃなく、自分の気持ちを選んでいい」
そうやって罪悪感にゆっくりと“許しの言葉”を届けることが、
封印を解いていく第一歩になる。
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罪悪感の奥にある「本当の願い」に、これからは手を伸ばしていい
私の中にあった罪悪感は、
「願ったら罰される」「欲しがったら拒絶される」という記憶が育てたものだった。
でも今の私は、
その記憶の中を生き続ける必要はない。
願っていい。
欲しがっていい。
自分のために選んでいい。
怖さはあっていい。
罪悪感が出ても、責めなくていい。
それでも、“欲しい”と感じた私の命の声を、もう否定しなくていい。
それが、
私にとっての「自由を選ぶ」最初の小さな一歩。
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次回は、
「妹は拒否できたのに、私はできなかったこと」
「全部を受け止めてきた私のしんどさ」
「母を拒絶できない怖さ」
について、
記憶と身体と気持ちを深くたどっていきます。
自分自身を取り戻す過程が少しでも誰かの参考になりますように。