「自分の感情は自分で引き受ける」
という言葉に出会ったとき、身体の奥がざわざわした。意味はなんとなくわかる。けれど、それがどういうことなのか、どうすればそうできるのかまったくわからなかった。
私は、1歳から20歳くらいまで母親からの虐待の中で生きてきた。大声で怒鳴られ、無視され、叩かれ、蹴られ、自分の気持ちを言えば怒られ、泣けばさらに怒られた。
母親はいつも、自分の感情を私にぶつけてきた。
だから私の中では、「感情を持つ=誰かを傷つける」という図式が刻まれてしまっていた。
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感情を感じると、逃げたくなる。
私は、感情を感じようとするとすぐに身体から抜けたくなる。まるで自分の身体と感情を切り離すことでしか、生き延びられなかったかのように。
それが長年の習慣になり、いまでも“感じる”ことに強い怖さが残っている。
身体に意識を向けると、無意識に逃げ出そうとしてしまう。だから、身体感覚がとても弱く、魂と身体を繋げる感覚にもなかなか入れなかった。
「感じたら壊れてしまう」
「感情は飲み込まれるもの」
「怖すぎて、向き合えない」
そう思いながらも、どこかで「もう逃げたくない」とも思っていた。
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初めて感じた、胸の痛みとお腹の重たさ
あるとき、身体がサインを出した。
胸がぎゅっと締めつけられるように痛くて、息が浅くなり、お腹が重たくて息がしにくくなった。
それは“ただの疲れ”ではなく、
ずっと押し込めてきた感情と記憶が、身体の中でうごめいているような感覚だった。
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お腹が怖い。触れることさえ、こわい。
お腹に意識を向けるのが、ずっと怖かった。
なぜなら、母親にお腹を蹴られていた記憶が濃く残っているから。怒られ、怒鳴られ、突然蹴られたあの感覚。ただ丸くなって、痛みに耐えていた日々。
私にとってお腹は、「感じる場所」ではなく、「痛みの場所」だった。
だから無意識のうちに、ずっとお腹から意識を切り離してきた。
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感情は身体に残っていた。
感じることをやめても、身体は、すべてを覚えていた。
悲しかったときも
苦しかったときも
怖かったときも
――言葉にならないすべてが、身体の中の“記憶”として残っていた。
そしてその記憶は、思い出そうとしなくても、
何かのきっかけで疼き出し、「ここにいるよ」と訴えてくる。
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解放は、“感じきる”ことじゃなく、
“安全を伝えること”
教えてもらったのは、過去の痛みに無理に飛び込むのではなく、いまの自分が“安全だよ”“もう大丈夫だよ”と身体に伝えてあげること。
たとえば――
•胸に手をあてて「ここにいていいよ」と言ってあげる
•怖がっている小さな自分に「いまは安全だよ」と伝える
•お腹に手をあてて「痛かったね」「もう一人にしないよ」と声をかけてあげる
解放とは、無理に感じることではなく、ずっと感じられなかった“私”を迎えにいくこと。
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感情を引き受けるとは、“あのときの私”に会いに行くこと
感情を引き受けるとは、
大きな声で感情を叫ぶことではなかった。
「私は、あのとき本当は怖かったんだ」
「私は、ずっと誰にも守ってもらえなかったんだ」
「私は、“感じたらダメ”って思い続けてきたんだ」
そうやって、あのとき感じられなかった気持ちを、
今の私が代わりに感じてあげること。
それが、私にとっての“引き受ける”という始まりだった。
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そして、私はここにいる
― 感じることは怖くていい。怖がりながら、戻ってくることもできる ―
今の私は、すべての感情を無理に感じようとは思っていない。
ただ、
「怖い」
「逃げたくなる」
「でも、感じたい」
その気持ちを否定せず、そのまま見つめるところから始めている。
私ができるのは――
逃げたくなったら逃げてもいいと伝えること。
それでも、「私はここにいる」とそっと手を置いてあげること。
感情を、怖がりながら少しずつ迎えに行ってあげること。
これが、私の最初の一歩。
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次回は、
「欲しがることを禁じられてきた私」
「“受け取っていい”と言えなかった私」
「自由に手を伸ばすことが怖かった私」
そんなテーマへと進んでいきます。
どの感情も、どの記憶も、
大切に抱えて一歩ずつ、優しく解いていけますように。