共有は、感情の分かち合い
伝えたいことがあるから書くのではないのだと思った。気づいてしまったから、言葉にせずにはいられない。僕にとって、文章や表現はいつもそういう順序で始まる、かもしれない。
「こう思ってほしい」ではなく、「僕はこう感じたんだ、どう思う?」というスタンス。押しつけでも、誘導でもない。ただ、自分の感情の断片を差し出すようなもの。
それが、共有するということの本質じゃないかと思う。気づきから生まれる衝動が、言葉を連れてくる。
魂に惹かれる理由
あるYoutube動画に最近無性に追いかけている。それはあるスポーツコンテンツだ。そんなコンテンツに人が惹かれる(僕だけではない)のは、上手さや技術だけが理由じゃない。彼らのプレイの背後にある「魂」が見えるから、心を動かされる。
そこには愚直さしかない。当然不器用さと一緒だ。当然、力でもやれば絶対できるというわけでもないのだ。それを知ってもやってみる。やってみることは誰も否定しないし、失敗は大歓迎だ。
何度も壁にぶつかって、それでも折れずに、しなやかに立ち続けている姿。誰もがマッチョに戦ってるわけじゃない。力強さと繊細さが共存しているからこそ、惹かれる。
その姿はとても学ぶことができる。僕もそうやって、不器用でも前に進みたいと思う。同時に自分はそこまで不器用というほど不器用でもない。けど、器用でクールでさくっとやるタイプではない。というか、そういうのは好きではない。
自分が共有したいのはそういった泥臭さだ。泥臭いからぐうの音も出ないでしょとか、そういう押しつけもない。フラットな共有でありつつも、魂や感情はしっかり出す。そういうのが一つの表現であり、僕のやり方かもしれない。
僕にできることは、感じたままを出すこと
器用に何かを演じたいわけじゃない。
上手に見せたい気持ちは、どこかにあるかもしれないけど、それが主役じゃない。
僕がやりたいのは、愚直にやること。オラオラとまっすぐ進んで、そこでぶつかって、また立ち上がって、その様子を見てもらうだけ。評価されるかどうかは、二の次でいい。それは、結果にすぎない。
「これ、いいんじゃないか」って、感じたままを差し出すこと。
それが共有であり、感情であり、僕のやりたい表現なんだと思う。
うまくいかないとか、それで駄目ならどうするのかって?いやそれが面白いのではないかと。そうしてどんな結果でも受け入れていくしかないし、それはストイックでもなんでもない。ただやったことと、その結果があるだけだ。全てを受け入れて一興として笑い飛ばしていこう。