一次情報としての体験=コトがますます大事になる

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前も同じようなことを書いています。
教養主義に走るわけではないのですが、つまり知識や古典があれば問題ないとか、それに偏重してしまうということでなく。

自分の体験や体感自体がどことなくどこかにあるようなものとイメージしてしまうと、これから見たい映画やエンタメもあまりやりたくなくなるんじゃないかなと。実際はそうでなく、自分が見聞きしたい、体験したい、自分でそれをまさに感じたいから価値が生まれるわけですね。

自分という存在×そのエンタメ自体の体験×その場で起きたこと。は代替不可能です。そこに気づいた人はエンタメの価値や自分の見方を最大化?最適化して面白くしていくような気がします。

とはいえ、その自分のものさしやコンテンツが溢れる中で、これだと決め打ちすることは結構難しい。

そうすると何がおきるかというと、やはり自分が体験したことや見たことで自分が心から面白いと感じるような、まさに「非効率」「無駄」「合理的でない」ような、ものが反動ではないですが余地として残ってくるのかなと。

最も無駄なことをし続ければいいとは思わないのですが、効率効率も限界がある。最近聞かなくなった、スローライフとかスピードを落とすは影を潜めつつも、とはいえでは一体何をどうしていくと良さそうか。これは答えはなくて、問い続けるとか考え続けるとなると、途端にあきらめたり面倒くさくなるんですね。

そこを粘ってもういいやと放棄せず、とはいえこれでいいよと妥協せず、とはいえこうしていれば必ず大丈夫と安易に決めない。

そのあーでもないこーでもないとはいえという宙ぶらりんのこの状態をどう感じていくか。まさに感じるであってそこに答えはないので、マインドフルネスとかに近い感じがします。

コト化=イベント化=体験化のパッケージをすればすなわち良いとか、そうすれば誰もがホイホイ釣れる(笑)わけでもなく。そういう時こそ、まさに人が自分が何を大事にしたいか、何が面白いと思うか。

アイデアもそうだと思っていて、簡単に出た答えではない(蓄積したものが多年にあった上での気づきが一瞬ということでなく)、長期に渡って考えることに価値はやはりあると思っていて、その両極端なものをどう塩梅よく感じるかが大事かもしれませんね。

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