情報過多に注意する

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コラム
これは僕自身が、というところですが、情報を出しすぎてないか?そもそも適切な出し方か?という反省みたいな話です。

集中力が持続しない世の中?

人と話す機会がありそこでも少し出たのは、スマートフォンにより分断されてしまい、細切れ時間はあるが、まとまった時間を例えば読書に当てるようなことって贅沢となっているようです。分かります。

一方で、思考など、アイデア発想もですが、一定の塊があって物質化ではないですが、一定の思考となり、硬さが出てくるイメージがあります。アイデアのインプット→思考→アウトプットという流れで言えば、思考はやはり時間がかかるということです。瞬時に出せるものはそれなりのものだし、それはやはり粗いので解釈する必要が相当程度あるのではないかってことですね。絶対駄目とかってことではなく。

そこでの話では2時間は結構きついと。かつ映画なら見られるが、今のご時世として、映画を見切る胆力は映画館などでしか生じづらく、最もサブスク映画サービスを見る事もできますが、その時間を作るのが大変ということですね。例えばそこでスマホを見ながら見るとかってありそうです。僕は見てないので推測です。

情報、コンテンツがあふれている

そういう状況がある中で、つまり情報が溢れているともいえるわけですよね。スマホで膨大な情報に、それこそリアルタイムのSNSの情報から、ニュース、どこぞのブログまで様々なものが粒度も含めて玉石混交だーという感じで放置できず、現実にも大きな影響を与えているわけですよね。

さてそういうところで、「情報を更に」付与する、つまり情報過多ということですがそうなるとどうなるか?

見ないとか読まれないんですよね(笑)まさにそこです。

集中力が減っているところで、思考の免疫も弱くなっている。さらにいえば、情報も過多なので、そこに浴びせても拒否される。

とても美味しい料理があるとして、満腹の人におすすめしてもきついですよね?というようなことが起きてないか?

ということをふと自分で感じたので、あーこれはやりすぎているかもしれないなと。短く短くということを心がけてやっと追いつくのかなということを感じています。

とはいえ、時間と集中をかけることなしに思考はない

二択ではないんですね。ハイブリッドとして、集中時はこれ、時間をかけないならこれというようにしていくのが軽やかです。

ただその上で、思考というのはある程度塊であるので、集中なくして思考の塊は生まれない。守破離みたいなもので、型としての守が出来るまでは集中をしてやはり会得するしかない。そこは「我慢」として苦痛ではなく、通過儀礼で「観光」的な意味で楽しんでもらえると嬉しいのですが、それって提供側と受容側で異なるというのが悩ましいところです。

もっと広げれば集中とはフィジカルで物理的な身体性というものがあると。だから多分ですが、「細切れ」でやりくりしている感じの人が癖になっているだけで、実際は集中し始めればその時間、つまり2時間なんて結構早いってことです。それほどハードルが高いわけでもない。慣れればやれてしまえるってことですね。

これらを踏まえた上で、短くして要約型コンテンツを出せばいいのは安易すぎます。とはいえ、「長文」だから読んでもらえない。これも癪ですよね(笑)どうすればいいか?の解決策や回答はないんですが、それこそ顧客に応じて、伝える人に応じて最適化するか、余地を設けて調整するしかないのかなと考えています。
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