この子は、どう生きてきた子どもなのか
(役に立たない思い出や風景)
心が疲れたり、悩んで嫌になったとき、そっと寄り添うバラードがある。
こんなもの読んでも立ち上がることは出来ない。でも、すぐ役立つものはすぐ役立たなくなる、これも経験済みだ。いつもそうだった。だから今は心に体重をしっかりおきながら、思ったことを確かめたい。新聞の紙面のなかでこんな言葉を見つけた。
「死を照らし出す」
大切なことは、「なぜ亡くなったのか」と同時に、「どう生きてきた子どもなのか」ということだ。
「生き方が表れていないと、死を照らしだせない」
死を照らし出すとは、亡くなったこと、命を失ったことの重大さを伝えることだ。
「生き方が表れていないと、死を照らしだせない」
子ども達が犠牲になる事件が続いている。報道の中で、どうして亡くなったのかは伝えられる。いじめがあったり、虐待があったり。こうして原因の言葉を連ねるだけでも胸の奥が重くなる。自分が何か出来たわけでもないのに、今こうして普通に暮らせる自分が情けなく憎くなる。私はこの子たちよりはるかに多くの時間を生きることが出来たのに。
亡くなったことばかりに目を向けても、その原因を作り出した相手や許した社会を責めるばかりだ。怒りは自分に毒を盛り、触れるだけで身体を震わせ他人を罵る。自分もそこから抜け出せないでいる。
亡くなった子ども達は、写真のなかでいつまでも笑っている。苦しさはそれだけで存在しない。そう思いたい。どこかでしあわせな時間があったことを信じたい。そうしないと、今こうして書いてる自分が息苦しくなる。
何を思って生きていたのか、どんな苦しさだったのか、それでもうれしいときはあったのか、その
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