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「説明的だから削る」は本当に正しいのか――『推し、燃ゆ』を読んで考えたこと

小説を推敲していると、よく気になることがあります。「ここ、ちょっと説明しすぎではないか」という問題です。人物が怒ったことは行動から十分に伝わっているのに、「私は腹が立った」と書く。悲しんでいることが描写から分かるのに、「私は悲しかった」と説明する。こうした文章を見ると、「そこまで書かなくても読者は分かるのではないか」と思うことがあります。私自身、自分の小説を推敲するときにも、この「説明しすぎ」をかなり気にしています。ところが最近、宇佐見りん『推し、燃ゆ』を精読していて、少し立ち止まりました。説明的であることは、本当にそれだけで欠点なのだろうか。今回はそんな話です。洗濯物が主人公を傷つける『推し、燃ゆ』には、主人公がある人物の持っている洗濯物を見て、強く傷つく場面があります。ここで重要なのは、主人公がそれまで必死になって集めてきたものとの対比です。主人公の部屋には、ファイル写真CDなど、「推し」にまつわるものが大量にあります。長い時間をかけ、お金も使って集めてきたものです。ところが、それら大量のコレクションに対置されるのが、たった一枚のシャツや、一足の靴下。ここが非常にうまい。量だけを比べれば、主人公が集めてきたもののほうが圧倒的です。しかし、シャツや靴下には、それとはまったく違うものが宿っています。生活です。誰かが今日それを着た。脱いだ。洗濯する。乾けば、また着るかもしれない。そこには、主人公がいくら写真やCDを集めても手に入れることのできない、推しの「現在」がある。つまり、大量の「推しの痕跡」<たった一枚の「推しの生活」という逆転が起きています。この対比だけでも、かなり多くの
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宇佐見りん『推し、燃ゆ』講評例#4

① バイト先での働きぶりを描写する際、句点を打つべきところで読点を打ち、一方で読点を打つべきところで打たない。その効果について。 バイト先で次々と情報や動作が重なっていく場面では、句点で情報を確定させず、また読点を置ける箇所でもあえて境界を弱めることで、主人公が周囲の情報を十分に処理できないまま右往左往している感覚が、文体そのものに移されているように読める。 その中で「お酒が入ることで油を差したように口が回る人なのだろう」(51 頁)だけは、相手の性質を一歩引いて分析する文章になっており、前後に比べて主人公の認知が急に冷静になる。この一文だけ語りの速度・距離が変わって見える。主人公の混乱を文体的に持続させることを優先するなら、削除あるいはより即時的な知覚へ置き換える余地がある。② 推しの人気投票をテレビで見ているところ、母親が用事を頼まれ、テレビを見ることの緊張を描かなかったことについて。 人気投票の結果を待つ主人公の緊張を直接描写するのではなく、途中に母親から頼まれた用事を挿入し、戻ったときにはすでに「5位」という結果が出ている。この構成によって、本来ならクライマックスになり得る順位発表の「過程」が意図的に欠落する。主人公が見届けられなかった時間を読者も経験できないのである。 同時に、主人公にとって重大な「推し」の世界へ、母親の「いい加減にしなさい」(65頁)に象徴される日常生活が容赦なく割り込んでくる。結果として「5位」は劇的に到達する数字ではなく、主人公の知らないところで決定されてしまった事実として突然現れる。ここには、推しに強く感情を寄せながら、その世界そのものには介入
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