私は、小説を「正しい読み」に直したくない――講評するときに大切にしていること
小説の講評をするとき、私ができるだけ避けたいことがあります。それは、「この人物の心理はおかしい」「普通ならこんな行動はしない」「ここでは、こう書いたほうがいい」と、作品を一つの読み方へ導いてしまうことです。もちろん、講評には「こう感じた」という読後感もあります。しかし私は、それだけで作品を書き換える根拠にはならないと考えています。「私はこう読んだ」と「だから直すべき」は違う。たとえば、小説の中で父親が突然、息子に激しい言葉をぶつけたとします。そこで、「この父親がこんなことを言うのは不自然です」と指摘することは簡単です。けれど、本当にそうでしょうか。人間はいつも一貫しているわけではありません。普段は温厚な人が突然怒ることもあれば、自分でも説明できない行動を取ることもある。そして何より、小説にはさまざまな人物が登場します。講評者自身の人間観に登場人物を合わせてしまったら、その人物が持っていた異物感や不気味さ、不可解さまで消してしまうかもしれません。だから私は、「私はこう読んだ」ということと、「だから、こう直すべきだ」ということを分けて考えます。この二つの間には、思っている以上に大きな距離があります。私が見るのは「何が書かれているか」。では、何を見るのか。まず大切にしているのは、できるだけテキストそのものを見ることです。たとえば、「ここで人物の気持ちが変化している。しかし、その変化につながる記述が前段には見当たらない」という指摘なら、比較的客観的に確認できます。あるいは、「この代名詞には二つの照応先が考えられる」「この比喩では、前半と後半でイメージの方向が変わっている」「この語を置く
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