誕生日が「たまたま」ではない、と考える理由
集まりの帰り道に、また同じことをやってしまった、と思うことはありませんか。直そうと決めたはずなのに、同じ場面で、同じように出る。何度やっても、同じ。玄明(げんめい)といいます。誕生日から、その人の設計を読むことをしています。私が学んだ暦では、そこを性格や癖として見ません。生まれた日が、暦のどこに置かれているか、として見ます。「配置」と呼びます。……と書くと、たいてい聞き返されます。誕生日なんて、たまたまでしょう、と。なぜ、たまたまではないと考えるのか。順番に書きます。何もない、完全な「無」からは、何も始まりません。空の鍋は、どれだけかき混ぜても渦にはならない。だからまず、それ以上分けられないいちばん小さな何かが、満ちていると置きます。それが自分の力で一点に集まる。集まれば内側の圧が高まり、限界を超えて、外へ弾ける。まっすぐ外へ広がる勢いは、そのまま素直には進みません。流れるものの常で、渦を巻く。排水口へ落ちる水も、立ちのぼる煙の先も、そうです。そして渦は、ひとつでは生まれません。右回りと左回り。必ず双子で生まれます。このいちばん最初の左右差が、世界に生まれた最初の「二つ」です。以後この世界のものは、その二つの組み合わせでできている。正直に書いておきます。「なぜ、いちばん小さな何かが在るのか」だけは、説明できません。そこは出発点として受け取ってもらうしかない。ただ、「誰かが創ったから」と言うと、問いはそこで終わります。この暦は、出発点から先を、自分の足で辿れる。私が惹かれたのは、その一点でした。同じ順番が、時間にもあります。始まりがあって、段階があって、一巡して、また始まる。その
0