母のあんぱん \ 喪失からの帰途
母のあんぱん \ 喪失からの帰途台所の蛇口から、水が一滴落ちた。静かな午後だった。食器棚の上に置いたままの時計が、秒針の音だけを刻んでいる。テーブルの上には、飲みかけの緑茶。湯気はもう消えていた。彼女は椅子に座ったまま、何をするでもなく、窓の外を見ていた。隣の家の庭に、白い洗濯物が風に揺れている。空は薄く曇っていて、光が柔らかく、どこにも影がなかった。こういう時間が、最近よくある。何かをしようとして、途中で手が止まる。掃除機をかけようとして、廊下の途中で立ち止まる。買い物リストを書こうとして、ペンを持ったまま動かない。忙しくないわけではない。子どもたちの学校のこと、来月の町内会のこと、冷蔵庫の中身のこと。やるべきことは山ほどある。なのに、体の中に薄い膜が一枚入っているような感じがして、すべてが少しだけ遠い。四ヶ月前に、母が死んだ。その言葉を心の中で呟くたびに、まだ輪郭がぼやけている。「死んだ」という言葉と、母の顔が、うまく重ならない。電話すれば出るような気がする。日曜に実家に行けば、台所に立っているような気がする。でも、いない。葬儀の日のことは、よく覚えている。白い菊の匂い。読経の低い声。参列者の靴が砂利を踏む音。自分は喪服を着て、受付の隣に立っていた。「しっかりしてるわね」と誰かに言われた。しっかりしていたのではなく、何も感じていなかっただけだった。それからの日々は、よく覚えていない部分と、異様に鮮明な部分がまだらに混ざっている。遺品の整理をした日。母の字で書かれた買い物メモが冷蔵庫に貼ってあった。「たまご、牛乳、あんぱん」。その三つの文字がぼやけて、涙が落ちた。あんぱん。母
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