【感謝という祈り】第3回 明日も「おはよう」と言える保証は、どこにもない
【感謝という祈り】第3回明日も「おはよう」と言える保証は、どこにもない前回は、「祈り」と「感謝」について書きました。神とは、人間の願いを都合よく叶えてくれる存在ではなく、ただそこにある大きな摂理そのもの。だからこそ祈りとは、お願いではなく感謝に戻ることなのかもしれない、と。今回はその続きとして、「生きていること・生かされていること」について、私自身の感覚を綴ってみたいと思います。当たり前の朝今朝、目が覚めたとき、あなたはどんな気持ちでしたか?布団の中でもう少し眠りたいと思いましたか?今日の仕事のことを考えましたか?それとも、特に何も考えずに起き上がりましたか?おそらくほとんどの人は、目が覚めることを当たり前のこととして、朝を迎えています。昨夜眠りについたとき、今朝また目が覚めるだろうと、疑いもせずに眠った。大切な人が隣で眠っていて、明日の朝もそこにいるだろうと、何の根拠もなく信じていた。しかしよく考えてみると、その「当たり前」は、どこにも保証されていないのです。今日一日も、明日の朝も、約束されていない私たちは毎晩眠りにつくとき、明日また目が覚めることを疑いません。しかし、眠りとは意識が途切れる瞬間です。その間に何が起きるかは、誰にも分からない。心臓は動き続けているか。呼吸は続いているか。それらは私たちの意志とは関係なく、ただ摂理(神)の働きの中で続いています。明日の朝、目が覚めたとき、自分自身がここにいる保証はどこにもありません。大切な人が「おはよう」と言ってくれる保証も、どこにもありません。そしてそれは、明日のことだけではありません。今朝目が覚めて、朝食を食べて、いつものよう
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