【感謝という祈り】第3回  明日も「おはよう」と言える保証は、どこにもない

【感謝という祈り】第3回  明日も「おはよう」と言える保証は、どこにもない

記事
占い

【感謝という祈り】第3回

明日も「おはよう」と言える保証は、どこにもない



前回は、「祈り」と「感謝」について書きました。
神とは、人間の願いを都合よく叶えてくれる存在ではなく、ただそこにある大きな摂理そのもの。だからこそ祈りとは、お願いではなく感謝に戻ることなのかもしれない、と。

今回はその続きとして、「生きていること・生かされていること」について、私自身の感覚を綴ってみたいと思います。



当たり前の朝

今朝、目が覚めたとき、あなたはどんな気持ちでしたか?

布団の中でもう少し眠りたいと思いましたか?

今日の仕事のことを考えましたか?

それとも、特に何も考えずに起き上がりましたか?


おそらくほとんどの人は、目が覚めることを当たり前のこととして、朝を迎えています。

昨夜眠りについたとき、今朝また目が覚めるだろうと、疑いもせずに眠った。大切な人が隣で眠っていて、明日の朝もそこにいるだろうと、何の根拠もなく信じていた。

しかしよく考えてみると、その「当たり前」は、どこにも保証されていないのです。



今日一日も、明日の朝も、約束されていない

私たちは毎晩眠りにつくとき、明日また目が覚めることを疑いません。

しかし、眠りとは意識が途切れる瞬間です。その間に何が起きるかは、誰にも分からない。心臓は動き続けているか。呼吸は続いているか。それらは私たちの意志とは関係なく、ただ摂理(神)の働きの中で続いています。

明日の朝、目が覚めたとき、自分自身がここにいる保証はどこにもありません。大切な人が「おはよう」と言ってくれる保証も、どこにもありません。
そしてそれは、明日のことだけではありません。

今朝目が覚めて、朝食を食べて、いつものように一日が始まった。しかしその一日が、夜まで無事に続く保証も、実はどこにもないのです。

通勤の途中で何かが起きるかもしれない。職場で突然体調を崩すかもしれない。何気なく別れた家族との朝の「いってきます」「いってらっしゃい」が、最後の言葉になることだって、この世界では起きています。

それは、不安を煽りたいのではありません。

ただ、私たちが「当たり前」と思っている一日一日が、摂理(神)の働きの中で静かに支えられているものだということを、時折立ち止まって思い出してほしいのです。

昨日まで当たり前のようにそこにいた人が、今日はもういない。そんな現実が、この世界では毎日起きています。

今夜眠りにつく前に「今日も一日、生かされた」と静かに手を合わせる。その小さな感謝が、明日への祈りになるのだと思います。



「おはよう」という言葉の重さ

「おはよう」は、日本語で最も短い挨拶の一つです。

毎朝、何気なく交わすこの言葉の中に、どれだけのものが詰まっているか、私たちは普段あまり意識しません。


今朝も目が覚めたこと。

自分自身と大切な者たちが同じ朝を迎えられたこと。

「おはよう」とはその全てが重なった瞬間に生まれる言葉です


もし今日が、その人と交わす最後の「おはよう」だったとしたら——そう思ったとき、この言葉がまったく違う重さを持って聞こえてきます。



失ってから気づくことの多さ

人は、失ってから気づくことが多い生き物です。

健康を失ってから、健康であることのありがたさに気づく。大切な人を失ってから、その人がそこにいてくれたことのありがたさに気づく。当たり前のように続いていた日常が崩れてから、その日常がどれほど尊いものだったかに気づく。

なぜ人は、失う前に気づけないのでしょうか。

それは、当たり前のものは見えなくなるからだと思います。毎日そこにあるものは、空気のように意識の外に出ていく。存在することが当たり前になると、感謝の対象から外れてしまう。

しかし、当たり前のものなど、本当は何一つないのです。



生きていることは、奇跡の連続である

私たちの体は、今この瞬間も無数の働きを続けています。

心臓は鼓動し、肺は呼吸し、血液は巡り、細胞は生まれ変わり続けています。これらのどれ一つとして、私たちが意識して動かしているものはありません。

すべては、摂理(神)の働きの中で、ただ続いています。

そう考えると、今朝目が覚めたという事実そのものが、すでに一つの奇跡です。今日も心臓が動いているということが、すでに感謝の対象です。「おはよう」と言える相手がそこにいるということが、かけがえのない恵みです。

「生きている」のではなく、「生かされている」

第1回で書いた言葉が、ここでも同じように響いてきます。



だから今日、丁寧に生きる

明日の保証がないからこそ、今日という日が尊いのだと思います。

明日また会えるから後でいい、ではなく、今日伝えられることを今日伝える。明日またできるから今日はいい、ではなく、今日できることを今日丁寧にやる。

それは、死を恐れて生きることではありません。今を大切にして生きることです。

「おはよう」と言える朝に、静かに感謝する。

食事の前に手を合わせて「いただきます」と言う。

眠りにつく前に、今日も一日生かされたことに「ありがとう」とつぶやく。


そういった小さな習慣の積み重ねが、人生の質をじわりと変えていくのだと、私は思っています。



感謝は、今この瞬間にある

第1回では食事の中の感謝を、第2回では祈りの中の感謝を書きました。

そしてこの第3回で伝えたかったことは、感謝とは遠い何かに向けるものではなく、今この瞬間の中にすでにある、ということです。


今朝目が覚めたこと。呼吸ができること。「おはよう」と言える人がそこにいること。

その一つひとつが、摂理(神)から与えられた、かけがえのない今です。

明日も「おはよう」と言える保証は、どこにもありません。だからこそ、今日の「おはよう」を、少しだけ丁寧に言ってみてください。

いつもと同じ言葉が、少し違って聞こえるかもしれません。



【感謝という祈り】シリーズは今回で完結です。

第1回:「いただきます」と「ごちそうさま」は、「ありがとう」と同じ感謝の言葉

第2回:祈りとは、お願いではなく感謝なのかもしれない

第3回:明日も「おはよう」と言える保証は、どこにもない

3回を通じて伝えたかったことは、ただ一つです。
感謝とは、特別な場所に向けるものではなく、今この瞬間の中にすでにある。


生きている時間は、有限です。だからこそ、自分がどんな性質を持ち、どんな流れの中を歩いているのかを知ることには、意味があるのだと思います。


もし今、ご自身の流れや生まれ持った性質を静かに見つめてみたいと感じられた方は、数理鑑定・数霊天啓鑑定を一つの入口としてご覧いただければと思います。


数理鑑定師 無紋(むもん)の 数霊天啓鑑定







サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す