【感謝という祈り】第2回
祈りとは、お願いではなく感謝なのかもしれない
前回は、「いただきます」と「ごちそうさま」という日常の言葉の中に宿る感謝について書きました。
食事の前に手を合わせること。命をいただくことに感謝すること。食事が整うまでに関わってくれた人や、自然の働きに感謝すること。
それは、特別な宗教行為というより、私たちの暮らしの中に静かに根づいている、とても自然な祈りの形なのだと思います。
今回はその続きとして、「祈り」と「感謝」について、私自身の考えを少し綴ってみたいと思います。
祈りとは、何かをお願いすることなのか
神社に行くと、多くの人が手を合わせます。
健康でありますように。仕事がうまくいきますように。良いご縁がありますように。家族が幸せでありますように。
人が何かを願うことは、とても自然なことです。苦しいとき、不安なとき、先が見えないとき、人は何か大きなものに手を合わせたくなります。それ自体を、私は否定するつもりはありません。
けれど、私自身は、神に対して「これを叶えてください」とお願いする祈り方を、あまりしません。
なぜなら、私にとっての神とは、人間の願いを都合よく聞き入れてくれる存在ではないからです。
私にとっての神とは
私にとっての神とは、特定の姿を持った存在というより、自然の摂理そのもの、宇宙の真理そのものに近いものです。
春が来れば草木が芽吹き、夏には命が勢いを増し、秋には実り、冬には静かに休む。
太陽は昇り、沈みます。月は満ち、欠けます。潮は満ち、引いていきます。命は生まれ、育ち、やがて形を変えていきます。
この大きな流れは、人間の都合で動いているものではありません。私たちが願ったから春が来るわけではなく、私たちが望んだから太陽が昇るわけでもありません。
ただ、そこにある。
ただ、そうなっている。
その揺るぎない働きの中に、私は神というものを感じます。
神は、都合の良い存在ではない
もし神を、人間の願いを叶えてくれる存在としてだけ見てしまうと、願いが叶わなかったとき、人は神を責めたくなるかもしれません。
どうして助けてくれなかったのか。
どうして願いを聞いてくれなかったのか。
どうして自分だけがこんな目に遭うのか。
けれど、
自然の摂理は、
人間にとって都合の良いことだけを運んでくるわけではありません。
雨は恵みであると同時に、ときに災いにもなります。太陽は命を育てる一方で、強すぎれば命を脅かすこともあります。人との出会いも、別れも、喜びも、苦しみも、すべては大きな流れの中で起こります。
だから私は、神を「お願いを聞いてくれる存在」としてではなく、「畏れ、感謝し、祈りを捧げる対象」として見ています。
祈りとは、姿勢なのかもしれない
私にとって祈りとは、何かを手に入れるための行為ではありません。
祈りとは、自分が大きな摂理(神)の中に生かされていることを思い出すための姿勢です。
今日も命が続いていること。
食べるものがあること。
息を吸い、吐けること。
誰かと関わり、何かを感じ、考えることができること。
当たり前のように見える一つひとつが、本当は当たり前ではありません。
そのことに気づいたとき、人は自然と頭を下げたくなるのだと思います。
「どうか叶えてください」ではなく、
「今日もありがとうございます」と手を合わせる。
それが、私にとっての祈りの原点です。
願いよりも、感謝が先にある
もちろん、人には願いがあります。
幸せになりたい。大切な人と穏やかに過ごしたい。仕事を良くしたい。人生を変えたい。苦しみから抜け出したい。
その願いは、とても人間らしいものです。
けれど、願いばかりが先に立つと、今すでに与えられているものが見えなくなることがあります。
まだ足りない。
まだ満たされない。
もっと欲しい。
どうして叶わないのか。
その心の状態のまま祈ると、祈りは感謝ではなく、不足の確認になってしまうのかもしれません。
だからこそ私は、願う前に、まず感謝を置きたいと思っています。
今ここにあるもの。
すでに与えられているもの。
支えられているもの。
生かされているという事実。
そこに意識を向けることが、祈りの始まりなのだと思います。
感謝は、世界の見え方を変える
感謝とは、不思議なものです。
状況そのものがすぐに変わるわけではなくても、感謝の目で見ると、世界の見え方が少し変わります。
苦しみの中にも、学びがあったのかもしれない。
失ったものの中にも、気づきがあったのかもしれない。
うまくいかなかった出来事の中にも、自分を本来の道へ戻す働きがあったのかもしれない。
そう思えるようになったとき、人は少しずつ、自分の人生を敵としてではなく、流れとして受け止められるようになるのだと思います。
感謝とは、
ただきれいごとを言うことではありません。
苦しみがなかったことになるわけでもありません。
悲しみが消えるわけでもありません。
理不尽な出来事を無理に肯定する必要もありません。
それでも、その出来事の中に何かの意味を見いだそうとする姿勢。自分がまだ大きな流れの中に生かされていると感じようとする心。
それが、感謝なのだと思います。
数理とは、摂理を読むこと
私が扱っている「数理鑑定・数霊天啓鑑定」も、根底にあるのはこの感覚です。
数は、単なる吉凶を示す記号ではありません。
その人が持って生まれた性質。
繰り返しやすい心の動き。
人生の中で現れやすい課題。
人との関係性の中で起こりやすい流れ。
そうしたものを、数という形を通して読み解いていくものです。
私は鑑定を、人間の都合に合わせて「良い答え」を出すためのものだとは考えていません。むしろ、その人が生まれ持った構造を知り、自分自身の自然な在り方へ戻っていくための道具だと考えています。
願いを叶えるために摂理(神)をねじ曲げるのではなく、摂理(神)を知ることで、自分の立ち位置を整えていく。
そのようなものとして、私は数を読んでいます。
祈りとは、感謝に戻ること
祈りとは、遠くにいる神様に何かを届けることではなく、自分の心を感謝の場所へ戻すことなのかもしれません。
目の前の食事に手を合わせる。朝の光に気づく。今日も息をしていることに気づく。人との出会いに意味を感じる。苦しみの中でも、自分がまだ生かされていることを思い出す。
その一つひとつが、祈りなのだと思います。
神とは、都合よく願いを叶えてくれる存在ではなく、ただそこにある大きな摂理。その摂理(神)の中で生かされていることに気づいたとき、自然と湧き上がるもの。
それが、感謝であり、祈りなのだと私は思います。
この感覚は、アインシュタインが語ったとされる宇宙的な秩序への畏敬の念、いわゆる「スピノザの神」という考え方にも、どこか通じるものがあるのかもしれません。
次回【感謝という祈り】第3回では、「生きていること・生かされていること」について綴ります。
「明日も「おはよう」と言える保証は、どこにもない」
もし今、ご自身の流れや生まれ持った性質を静かに見つめてみたいと感じられた方は、「数理鑑定・数霊天啓鑑定」を一つの入口としてご覧いただければと思います。
数理鑑定師 無紋(むもん)