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傘を差し出したあの日、まだ名前も知らなかった

放課後のチャイムが鳴るころ、校庭にはもう、人の姿はなかった。雨が降る。ザーッという雨音だけが、世界を占領していた。僕は教室に取り残されたまま、カバンを肩にかけたが――どうしても、一歩が出なかった。理由は簡単だ。傘を忘れたのだ。窓の外を見つめながら、ため息をひとつ。濡れて帰るしかない、と覚悟したときだった。「――これ、使う?」振り返ると、見たことのある女子が立っていた。同じクラスだが、一度も話したことはない。「私、カサ二本あるから」冗談みたいな言葉だった。なんで二本も? と聞く前に、彼女は一歩、近づいてきた。「……本当は、持って帰れない手紙があってさ。 荷物が濡れたら困るから、保険で二本持ってきたの」その意味はわからなかった。でも、簡単に聞いてはいけない理由がある――そう思った。誰にも言えないことを抱えてるのは、自分だけじゃないんだ。そう思ったら、不思議と、雨の音がやわらかく聞こえた。「ありがとう」そう言うと、彼女は少し照れた声で返した。「返さなくていいよ。……手紙、書けたら返して」あの日、僕は知らなかった。この傘を渡してくれた彼女が、のちに“泣き笑いできる親友”になることを。そして、彼女の言った「手紙」の意味を知るのは、ずっとずっと先――桜の咲く、別れの日だった。人は、傘じゃなく 心を貸してくれるときがある。
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