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悔しいまま、終わりたくない

風が少し冷たくなった。夕暮れのグラウンドに、砂ぼこりが舞う。練習を終えたメンバーが次々と荷物をまとめ、小さな笑い声がちらほら戻ってきていた。柚はゴールポストのそばに腰を下ろした。夕日が金色に光って、汗に濡れたスパイクの縁がきらりと反射する。まだ、何も“元通り”じゃない。けれど、“終わった”とも思わなかった。陽菜が近づいてきた。「……キャプテン、ちょっといい?」柚が顔を上げると、陽菜は手にノートを持って立っていた。「先生が言ってた“できたことノート”、 ……やっぱり、書けないや」「どうして?」陽菜はため息をついて、グラウンドの土を指でつまんだ。「何もできてないから。 あたし、去年の試合で外したシュート、 今でも夢に出てくる。 “できたこと”なんて、何もない」柚はその言葉を聞きながら、かつての自分を見ているような気がした。(分かるよ……。 私も、ずっと“やめなかった”以外書けなかった。)「陽菜」「うん?」「“できたこと”って、上手くいったことじゃないと思う」「……じゃあ、何?」「それでもここに立ってること。 それだけで、できたことなんだと思う」陽菜はしばらく黙っていた。風が二人の間を抜けていく。「……そんなの、書いてもいいの?」「いいよ。私は毎日、それしか書けなかったから」陽菜がふっと笑った。泣き笑いみたいな、どうしようもなく人間くさい笑顔だった。その夜、陽菜はノートを開いた。ペンを握って、ためらいながら一行だけ書く。「今日、できたこと──まだここにいる」書いた瞬間、胸の奥に溜まっていた何かがすっと軽くなった。ページの端が少し濡れていたけれど、拭こうとは思わなかった。翌日。放課後の
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“勝ち負け”で壊れるんじゃない“諦め”で壊れるんだ

週が明けた月曜日。まだ朝露の残るグラウンドに、柚はいつもより少し早く着いた。空は淡いオレンジ色で、風がユニフォームの裾を揺らしている。ノートを開く。昨日までのページに並ぶ小さな文字。“立てた”“押し出した”“ありがとうが言えた”。書いているうちに気づいた。最初は「できたこと」を探していたのに、今は「気づいたこと」を書いている。“昨日、美緒が笑った”“陽菜がボールを蹴った”“風が気持ちよかった”たったそれだけのことなのに、ページが少しずつ温かくなっていく気がした。しばらくすると、美緒が来た。そして陽菜も。柚は少し驚いた。日曜日は来なかった二人だった。「……おはよう」陽菜がぽつりと呟いた。その声が風に乗って、白線の上を滑っていった。「おはよう」柚はそれだけ返した。三人の間に言葉は少なかったけれど、沈黙が昨日より柔らかかった。美緒がボールを置く。陽菜が軽く蹴る。柚が受ける。それだけのやり取り。けれど、その一つ一つが懐かしくて、少し泣きそうになった。昼休み。部室のドアを開けると、机の上に数冊のノートが積まれていた。昨日、配ったまま放置されていたはずのもの。一冊ずつ、名前が書かれている。結月、玲奈、紗耶……。神谷先生が入ってきて、それを見て目を細めた。「戻ってきたか」「え?」「彼女たち、昼にノート取りに来たらしい」柚は、胸の奥が少し熱くなった。先生は机に手を置いて言った。「チームは“勝ち負け”で壊れるんじゃない。 “諦め”で壊れるんだ」「……はい」「柚、もう一度みんなを集めよう」放課後。グラウンドに夕日が落ちる。赤い光が砂を照らして、風が泥を乾かしていく。部員が一人、また一人と集まってき
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今日、できたこと──立てた

翌朝のグラウンドは、昨日より少しだけ柔らかかった。夜の冷えで乾きかけた泥に、スパイクの跡が浅く残る。柚は誰もいないグラウンドの真ん中に立った。風が頬を撫でて、汗の跡を冷たくしていく。昨日までの重たい空気が、少しだけ軽くなっている気がした。気のせいかもしれない。でも、気のせいでもいい。ノートを開く。ページの端に、泥の指跡がついていた。“水を押し出した”その下に新しい一行を加える。「今朝、グラウンドに立てた」ただそれだけ。でも、それが今の自分の全部だった。しばらくすると、美緒が来た。眠たそうな目で、髪を後ろで束ねている。「……早いね」「うん。なんか、来ないと落ち着かなくて」二人で並んで立つ。朝日が少しずつ顔を出して、白い息を光らせていた。「昨日の、あれ……見た?」「メモ?」「うん」「見た。誰だろうね」美緒は少し笑って言った。「分かんないけど、なんか救われたよね」柚も頷いた。「“ありがとう”って、 あんなにあったかい言葉だったんだね」「……あの先生、見えてたのかな」「何が?」「こうなるの。 私たちが、少しずつ戻ってくること」柚は答えなかった。風が、二人の間を抜けていく。昼休み。フェンスの向こうから、陽菜と結月の姿が見えた。二人とも制服のまま。「……なに、また練習してんの?」陽菜が声を上げた。柚は笑いながら、「してないよ。ただ、立ってるだけ」と答えた。「何それ。変なの」陽菜は呆れたように言って、結月と目を合わせた。でも、すぐには帰らなかった。沈黙のあと、陽菜がボールを足で転がした。「……蹴っていい?」「いいよ」蹴られたボールがゆっくり転がる。その音が、昨日までの沈黙を少しずつほどいてい
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今日、できたこと

三月の風は、まだ冷たかった。夜に降った雨が乾ききらず、グラウンドの砂はしっとりと重い。「声、出していこう!」キャプテンの柚(ゆず)が叫んでも、返ってくるのは短い返事と沈黙だけだった。ボールは転がる。けれど、誰も追わない。掛け声も笑いも、このチームからいつの間にか消えていた。一年前、全国大会で惨敗した。それから、何かが止まったままだ。この春、新しい顧問がやってきた。神谷先生。五十を過ぎた穏やかな目をした人だった。初日の練習が終わると、先生は部室に全員を集めた。狭い空間に泥と汗の匂いが混ざっている。窓の外では、夕方の光がグラウンドの白線を照らしていた。「今日からしばらく、ボールを使わない」ざわめきが起こる。「え?」「何言ってんの?」「サッカー部ですよ?」「わかってる。 でも、今のままじゃ、 ボールを蹴る資格がない。 技術より先に、生活を整えよう。 挨拶、掃除、言葉づかい── 人としての基本からやり直したい」沈黙。陽菜が壁にもたれて、腕を組んだ。「それ、サッカーに関係あるんですか? “ありがとう”で点、入るんですか?」笑いが起きた。でも、その笑いは乾いていた。神谷先生は、一冊のノートを手に取った。白い表紙。黒いペンで「今日、できたこと」と書かれている。「これを持って、一日一つ、“できたこと”を書いてほしい」「……“できたこと”?」「“練習を頑張れた”でもいい。“ありがとうが言えた”でもいい」陽菜が息を吐いた。「先生、私たち全国行きたいんですよ。 “ありがとうの練習”とか、バカにしてます?」その言葉に、空気が止まる。みんなが陽菜を見た。誰も止めない。みんな同じことを思っていた。柚も言え
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“三百の約束”ってのは

試合当日の朝。空はどんよりとした灰色。グラウンドに打ちつける雨の音が、誰の心にも不安を落としていった。「中止にならないのかな……」美緒がつぶやく。神谷先生は首を横に振った。「やる。こんな日だからこそ、やるんだ」柚は息を吸った。胸の奥が冷たい。それでも、手にしたスパイクの紐をしっかりと結んだ。ウォーミングアップの時間。ピッチに立つと、泥が跳ねた。スパイクの裏が重くなる。滑る。何度も転ぶ。(こんなコンディションじゃ……)そんな声が脳裏をかすめた瞬間、神谷先生の言葉が浮かんだ。「立つことをやめなければ、“負け”は来ない」柚は深呼吸をして、雨の匂いを肺に入れた。(そうだ。できることをやろう。)試合開始の笛が鳴る。ピッチの上では、泥が跳ね、声が飛び交う。相手は全国常連の強豪校。ボールを持っても、すぐに囲まれ、弾かれる。前半の終盤。相手に一点を取られた。「……っ」陽菜の肩が震えた。自分のマークを外したせいだった。「ごめん!」叫ぶ声を、雨が飲み込む。柚が近づいて、短く言った。「いい。次、取り返そう」目は真っすぐだった。責めるでも慰めるでもない。ただ、信じている目だった。陽菜は唇を噛んだ。(なんで、そんなふうに言えるの……)胸の奥が熱くなった。ハーフタイム。全員が息を荒げながらベンチに戻る。神谷先生が濡れたメモ帳を開いて言った。「ここまでの“できたこと”を、思い出せ」誰もすぐには声を出せなかった。先生は微笑んで言った。「挨拶をした。掃除をした。 水を押し出した。 “ありがとう”を言えた。 それら全部が、今の一歩を作ってる。 泥に負けるな。自分に負けるな」柚は、胸の奥が熱くなった。陽菜が小さく頷
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多分、“ちゃんと生きる”ってことだよ

三月の終わり。校舎の裏の桜が、ようやく咲き始めていた。風はまだ少し冷たいけれど、その中に確かに春の匂いが混ざっている。放課後のグラウンド。あの日の雨が嘘のように、土は乾き、白線が新しく引かれていた。柚は一人、ベンチに座っていた。膝の上に、使い込まれたノート。表紙は泥の跡で汚れ、端は雨に溶けたように波打っている。ページをめくると、小さな文字がびっしり並んでいた。“ありがとうが言えた”“笑ってパスを出せた”“転んでも立てた”“もう一度蹴れた”文字のひとつひとつが、泥と汗と涙の跡のように光って見えた。陽菜がやってきた。髪をひとつに結び、ユニフォームの袖をまくっている。「キャプテン、先生、待ってるよ」「うん」柚はノートを閉じて、ゆっくり立ち上がった。二人で歩きながら、ピッチの中央まで進む。神谷先生がゴールポストの前に立っていた。周りには後輩たちの姿もある。次の世代の新しい顔。「今年のキャプテンを紹介する」先生の声に、少しだけざわめきが起こる。「柚と陽菜の背中を見てきた、 新チームの要だ」拍手の音が風に混ざる。その音を聞きながら、柚は静かに空を見上げた。雲が流れていく。光が、ピッチの上に降り注ぐ。部室に戻る途中、陽菜が言った。「ねぇ、キャプテン」「ん?」「“三百の約束”って、結局なんだったんだろ?」柚は少し笑って、ノートの表紙を指でなぞった。「多分、“ちゃんと生きる”ってことだよ」「ちゃんと、生きる……」「うん。勝つとか、負けるとかじゃなくてさ。 誰かのせいにしないで、自分で立つってこと」陽菜は黙って頷いた。その横顔を見ながら、柚はふと思った。(このチームは、もう大丈夫だ)帰り際、風が吹
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