今日、できたこと

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コラム
三月の風は、まだ冷たかった。
夜に降った雨が乾ききらず、
グラウンドの砂はしっとりと重い。

「声、出していこう!」
キャプテンの柚(ゆず)が叫んでも、
返ってくるのは短い返事と沈黙だけだった。

ボールは転がる。
けれど、誰も追わない。

掛け声も笑いも、
このチームからいつの間にか消えていた。

一年前、全国大会で惨敗した。
それから、何かが止まったままだ。

この春、新しい顧問がやってきた。

神谷先生。
五十を過ぎた穏やかな目をした人だった。

初日の練習が終わると、
先生は部室に全員を集めた。

狭い空間に泥と汗の匂いが混ざっている。
窓の外では、
夕方の光がグラウンドの白線を照らしていた。

「今日からしばらく、ボールを使わない」

ざわめきが起こる。

「え?」
「何言ってんの?」
「サッカー部ですよ?」

「わかってる。
 でも、今のままじゃ、 ボールを蹴る資格がない。
 技術より先に、生活を整えよう。
 挨拶、掃除、言葉づかい──
 人としての基本からやり直したい」

沈黙。
陽菜が壁にもたれて、腕を組んだ。

「それ、サッカーに関係あるんですか?
 “ありがとう”で点、入るんですか?」

笑いが起きた。
でも、その笑いは乾いていた。

神谷先生は、一冊のノートを手に取った。
白い表紙。
黒いペンで「今日、できたこと」と書かれている。

「これを持って、一日一つ、“できたこと”を書いてほしい」

「……“できたこと”?」
「“練習を頑張れた”でもいい。“ありがとうが言えた”でもいい」

陽菜が息を吐いた。
「先生、私たち全国行きたいんですよ。
 “ありがとうの練習”とか、バカにしてます?」

その言葉に、空気が止まる。
みんなが陽菜を見た。

誰も止めない。
みんな同じことを思っていた。

柚も言えなかった。
(ほんとに、こんなことで強くなれるの?)

神谷先生は静かに言った。
「馬鹿にされてもいい。
 でも、今のままなら何も変わらない」

陽菜がノートを机に叩きつけた。
「理想ばっかり言わないでください!
 現実、見てるのはこっちです!」

ドアが大きな音を立てて閉まった。

残されたノートの山と、
冷えた沈黙だけが部室に残った。

夜。
柚は一人で部室に戻った。
机の上には、自分の名前が書かれたノート。

ページを開く。
真っ白。
ペン先を置いても、言葉が浮かばない。

“今日、できたこと──”

長い沈黙のあと、ようやく書いた。

「やめなかった」

それだけ。
でも、その一行に、
今日までのすべてが詰まっていた。

翌朝。
グラウンドの隅で神谷先生が一人、
ワイパーを押していた。

昨日の雨が残した水たまりを、
竹ぼうきとタオルで少しずつ外へ押し出している。

「先生、それ……一人でやってるんですか?」
「誰もやらないからね」

淡々とした声。
柚はしばらく見ていた。

朝日が昇るにつれて、水面に光が揺れていた。

「……手伝います」
「ありがとう」

二人で泥の上を押す。
靴が沈み、泥が跳ねる。
息が白く混ざる。

何も話さずに押し出すたび、
水が少しずつ動いていく。

その動きを見ながら、
柚の胸の奥でも何かが
ほんの少しだけ動いた気がした。

次の日。
グラウンドのフェンスに、
小さな紙が貼られていた。

「昨日、きれいにしてくれてありがとう」

雨で文字がにじんでいた。
誰が書いたのか分からない。

でも、その一文を見た瞬間、
柚は立ち尽くした。

(……見てた人、いたんだ)

胸の奥が、静かに熱くなる。

夜。
ノートを開き、柚はゆっくり書いた。

「今日、できたこと──水を押し出した」

ただそれだけ。
けれど、その文字の中に、
確かな手応えがあった。

次の日。
陽菜が転がったボールを、
何気なく蹴った。

美緒が追いかけた。
誰も声を出さなかったけど、
その音がグラウンドに響いた。

泥を踏む音、
ボールの弾む音。

誰も合図していないのに、
少しずつ輪が広がっていく。

柚は思った。
(きっと、こういうのから始まるんだ)

まだ勝てるわけじゃない。
でも、もう何かが動き出している。

冷たい風の中に、
かすかな春の匂いが混ざっていた。

──続く。
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