“三百の約束”ってのは

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コラム
試合当日の朝。
空はどんよりとした灰色。

グラウンドに打ちつける雨の音が、
誰の心にも不安を落としていった。

「中止にならないのかな……」
美緒がつぶやく。

神谷先生は首を横に振った。
「やる。こんな日だからこそ、やるんだ」

柚は息を吸った。
胸の奥が冷たい。

それでも、
手にしたスパイクの紐をしっかりと結んだ。

ウォーミングアップの時間。

ピッチに立つと、泥が跳ねた。
スパイクの裏が重くなる。
滑る。
何度も転ぶ。

(こんなコンディションじゃ……)
そんな声が脳裏をかすめた瞬間、
神谷先生の言葉が浮かんだ。
「立つことをやめなければ、“負け”は来ない」

柚は深呼吸をして、
雨の匂いを肺に入れた。

(そうだ。できることをやろう。)

試合開始の笛が鳴る。
ピッチの上では、泥が跳ね、声が飛び交う。

相手は全国常連の強豪校。
ボールを持っても、
すぐに囲まれ、弾かれる。

前半の終盤。
相手に一点を取られた。

「……っ」
陽菜の肩が震えた。
自分のマークを外したせいだった。

「ごめん!」
叫ぶ声を、雨が飲み込む。

柚が近づいて、短く言った。
「いい。次、取り返そう」

目は真っすぐだった。
責めるでも慰めるでもない。

ただ、信じている目だった。

陽菜は唇を噛んだ。
(なんで、そんなふうに言えるの……)
胸の奥が熱くなった。

ハーフタイム。
全員が息を荒げながらベンチに戻る。

神谷先生が濡れたメモ帳を開いて言った。
「ここまでの“できたこと”を、思い出せ」

誰もすぐには声を出せなかった。

先生は微笑んで言った。
「挨拶をした。掃除をした。
 水を押し出した。
 “ありがとう”を言えた。
 それら全部が、今の一歩を作ってる。
 泥に負けるな。自分に負けるな」

柚は、胸の奥が熱くなった。
陽菜が小さく頷いた。

(負けたくない。今日だけは。)

後半。
ボールが転がる。
滑るピッチ。
必死に走る。
息が切れる。
視界が滲む。

残り二分。
一点差のまま。

陽菜の足元に、ボールがこぼれた。
雨で跳ねたボールが、ほんの一瞬、空を切る。
柚の声が聞こえた。

「いけ!!」

陽菜は全身で振り抜いた。
泥が飛ぶ。
ボールがネットに吸い込まれた。

歓声。
泣き声。
雨音。

みんなが駆け寄る。
陽菜は泣きながら笑っていた。

「できた……!」
「うん。できたよ」

柚の声は震えていた。
勝ち負けなんてどうでもよかった。

たった今、
自分たちが“立っていた”ことがすべてだった。

試合後。
雨は止んでいた。

ピッチの上に、まだ水たまりが残っている。
夕陽が反射して、光がゆらいでいた。

柚は濡れたノートを開いた。
最後のページに、
小さな文字で書いた。

「今日、できたこと──三百の約束を守れた」

そのページの下に、
陽菜が書き加えた。

「ありがとう。やっと言えた」

風が吹いた。
ページが一枚、めくれた。
空が、オレンジ色に染まっていた。

神谷先生が、少し離れたところで見ていた。
静かに目を閉じて呟く。

「“三百の約束”ってのはな、
 勝つためのルールじゃない。
 生きるための習慣だ」

誰も聞いていなかったけれど、
その言葉は風に乗って、
ピッチの上を静かに流れていった。
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