韓国映画『マルモイ』を観て考えた「尊厳を奪われる」ということ
韓国映画『マルモイ』を観ました。日本統治時代、母国語であるハングルを守るために、命がけで辞書を作った人たちの物語です。観終わったあと、考え込んでしまいました。もし私が突然、「日本語を使うな」「名前を変えろ」「子どもにも日本語を教えるな」と言われたらどうだろう。きっと苦しくて、苦しくてたまらないと思います。言葉は、ただの会話の道具ではありません。家族との思い出があり、文化があり、自分自身があります。だから言葉を奪われるということは、その人の尊厳やアイデンティティを奪うことでもあるのだと感じました。そして映画を観ながら、私はモラハラのことを思い出していました。もちろん歴史上の植民地支配と、家庭内で起きるモラハラは同じではありません。けれど、「相手を自分の思い通りにしたい」という支配の構造には、どこか共通するものを感じたのです。モラハラ夫はよく言います。「うちの実家ではこうだった」「俺の母親はこうしてくれていた」「普通はこうするだろ」そして自分が育った環境や価値観を絶対的な基準として、妻や子どもにも従うことを求めます。最初は、小さなことかもしれません。でもそれが積み重なると、自分の考えが言えなくなる。自分の感じ方に自信が持てなくなる。「私がおかしいのかな」と思うようになる。気づけば、自分らしさを失っていきます。モラハラ被害者の方の話を聞いていると、「自分が何を好きだったのか分からなくなりました」と言われることがあります。私はその言葉を聞くたびに胸が苦しくなります。人は誰でも、自分の言葉を持っています。自分の考えがあります。自分の人生があります。それを奪われていい人なんて、一人もいませ
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