『やさしさ迷惑44/100』

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学び
第44話
期待だけ渡さないで

前話:森田の発表練習で、優作は何度も助け舟を出しそうになった。けれど、森田が自分の言葉で戻ってくる時間を奪わないために、黙って待った。森田は詰まりながらも、「もう一回、自分で言えました」と言った。優作は、助けないことも支えることになるのだと、少しだけ知った。

翌日の午後、大槻が森田を連れてやってきた。

森田の手には、昨日より少し薄くなった資料があった。

何度か削った跡がある。

端が少し折れている。

それだけで、昨日のあとも一人で触っていたことが分かった。

「森田、昨日からだいぶ直してきました」

大槻が言った。

声には、少し嬉しさが混じっていた。

森田は照れたように頭を下げる。

「まだ、長いところはあると思いますけど」

桐谷が資料を覗く。

「お、昨日より文字減ってる」

森田は少し笑った。

「削りました」

「いいじゃん。話長いキャラ卒業じゃん」

桐谷が軽く言った。

会議室に、小さな笑いが起きた。

森田も笑った。

でも、笑い方が少し遅かった。

優作はそれを見た。

本当に嫌だったわけではない。

傷ついたというほどでもない。

でも、森田の笑顔の奥に、ほんの少し力が入った。

大槻が続けた。

「これなら、次の本番もいけそうですね」

森田の指が、資料の端を押さえた。

ほんの少しだけ。

誰も気づかないくらいの動きだった。

でも、優作には見えた。

「本番も?」

森田が聞き返す。

大槻は明るく頷いた。

「うん。昨日よりかなり良くなってるし、次の説明会で五分くらい任せてもいいかなと思って」

森田は、すぐに「はい」と言った。

言ったあとで、少し喉を動かした。

「頑張ります」

その言葉は前向きだった。

でも、軽くはなかった。

優作の中で、何かが引っかかった。

期待されることは、悪いことではない。

森田は、認められた。

昨日できなかったことが、今日は少しできるようになった。

大槻も、それを見ていた。

だから任せたいと思った。

自然な流れだった。

それでも、優作は思った。

今、森田に渡されたのは、期待だけではないか。

期待されないことは苦しい。
でも、期待だけされて支えられないことは、もっと苦しい。

森田は資料を開いた。

「じゃあ、一回、今日の形で話します」

大槻が頷く。

「お願いします」

森田は立ち上がった。

昨日より、出だしはよかった。

「今回お伝えしたいことは三つです」

声も安定している。

話も短くなっている。

桐谷が小さく頷いた。

黒川もメモを取っている。

美月は表情を変えずに聞いていた。

真壁は腕を組んで、全体の流れを見ている。

優作も聞いた。

森田は、確かに良くなっていた。

けれど、途中から少しずつ早口になった。

昨日より上手く話そうとしている。

期待に応えようとしている。

短くしようとして、息が浅くなっている。

ミスをしないように、余白を消している。

森田は最後まで話し切った。

「以上です」

大槻がすぐに言った。

「いいじゃん」

森田は頭を下げた。

「ありがとうございます」

「これなら本番、いけるよ」

大槻が言う。

森田はまた笑った。

今度も、少し遅かった。

優作は、そこで口を開いた。

「森田さん」

森田がこちらを見る。

「今の、かなり分かりやすくなっていました」

「ありがとうございます」

「ただ、本番を任せる前に、何を支えるかを決めた方がいいと思います」

大槻が優作を見る。

「支える?」

「はい」

優作は森田を見た。

「森田さんが一人で全部持つ形にしない方がいいと思います」

森田は少し黙った。

大槻が苦笑する。

「でも、任せるってそういうことじゃないですか」

「任せること自体は、いいと思います」

優作は言った。

「でも、任せるなら、戻れる場所も一緒に渡した方がいいです」

会議室が静かになった。

桐谷が椅子を少し引いた。

黒川が顔を上げる。

美月は黙って優作を見ていた。

優作は続けた。

「本番で詰まった時に、誰がどこで入るのか」

「資料の最終確認を誰が見るのか」

「五分の中で、絶対に伝えることは何か」

「そこが決まっていないまま“期待してる”だけだと、森田さんが全部持つことになります」

大槻は資料を見た。

森田は、まだ何も言わなかった。

「任せるね」は、信頼の言葉に聞こえる。
でも、戻る場所のない任せ方は、人をひとりにする。

大槻は少し考えてから、森田に向き直った。

「森田、正直どう?」

森田は、一瞬だけ迷った。

いつものように、すぐ「大丈夫です」と言いそうな顔をした。

でも、言わなかった。

資料を握る手に、少し力が入る。

「嬉しいです」

森田は言った。

「任せてもらえるのは、嬉しいです」

大槻は頷いた。

森田は続けた。

「でも、正直、少し怖いです」

言ったあと、森田は目を伏せた。

「昨日、少しできただけなので」

その言葉が、会議室に落ちた。

大槻の表情が変わった。

嬉しさだけで見ていた顔から、少し現実に戻った顔になった。

「そうか」

大槻は小さく言った。

「悪い。できそうだと思って、すぐ次に乗せた」

森田は首を振った。

「いや、ありがたいです」

「うん」

大槻は森田の資料を指さした。

「じゃあ、本番は五分全部じゃなくて、最初の二分だけ森田でいこう」

森田が顔を上げる。

「二分、ですか」

「うん。三つのうち、一つ目だけ」

大槻は続けた。

「残りは僕がつなぐ。で、資料は今日中に中村さんと俺で確認する」

優作は頷いた。

「はい」

大槻は森田を見る。

「本番で詰まったら、俺が一回受ける。森田が戻れそうなら戻す」

森田は、少しだけ息を吐いた。

肩の位置が下がった。

「それなら、やってみたいです」

やってみたい。

頑張ります、ではなかった。

大丈夫です、でもなかった。

その言葉を聞いて、優作は少しだけ安心した。

期待が消えたわけではない。

役割を外したわけでもない。

ただ、期待に支えがついた。

それだけで、森田の表情が少し変わった。

桐谷が小さく言う。

「期待って、持ち手つけないと重いんすね」

黒川がすぐに言った。

「比喩としては曖昧ですが、意味は理解できます」

桐谷が笑う。

「今日、黒川さん優しいっすね」

「事実です」

「それが優しいんすよ」

佐伯が、隣で小さく笑った。

美月は森田の資料を見ていた。

少しして、静かに言った。

「できた人を見ると、周りは安心します」

誰も口を挟まなかった。

「でも、本人はまだ安心していないことがあります」

森田は、美月の言葉を聞いていた。

優作も、聞いていた。

美月はそれ以上言わなかった。

それだけで十分だった。

練習が終わったあと、森田は資料を抱えて会議室を出ていった。

その背中は、昨日より少しだけ軽く見えた。

でも、完全に安心しているわけではなかった。

大槻が、優作の横で小さく言った。

「褒めたつもりだったんですけどね」

優作は頷いた。

「はい」

「次もいけるなって言われたら、嬉しいと思ってました」

「嬉しいと思います」

優作は言った。

「でも、嬉しいことと、怖くないことは別だと思います」

大槻は少し黙った。

「なるほど」

その声は、少し低かった。

でも、逃げてはいなかった。

人は、期待に応えたいから壊れることがある。
できないからではなく、期待されている自分を裏切れないからだ。

夕方、優作は森田の資料を見直していた。

二分。

たった二分の発表。

それでも、森田にとっては大きい。

誰かにとって小さな役割が、本人にとって小さな荷物とは限らない。

優作は、資料の余白にメモを書いた。

最初に伝えることは一つ。

迷ったら資料に戻る。

詰まったら大槻が受ける。

最後は、次の説明につなげる。

支えを文字にすると、期待が少しだけ扱いやすくなる気がした。

佐伯が、隣から言った。

「期待されるのって、難しいですね」

優作は顔を向けた。

佐伯は画面を見たままだった。

「期待されないと、自分はいらないのかなと思う時があります」

少し間があった。

「でも、期待されると、失敗できない気がします」

優作は、すぐには返さなかった。

佐伯の言葉は、森田の話だけではなかった。

たぶん、佐伯自身の話でもあった。

「そうですね」

優作は静かに言った。

「期待だけだと、怖いですね」

佐伯は頷いた。

それ以上、二人は話さなかった。

でも、沈黙は重くなかった。

帰り際、大槻からチャットが届いた。

森田と確認しました。
二分でいきます。
詰まったら自分が受けます。
本人も「それならやってみたい」と言っていました。

優作は画面を見て、少し息を吐いた。

期待は悪者ではない。

期待されることで、人は前に出られることがある。

誰かに見てもらえた気がすることもある。

でも、期待は軽い言葉ではない。

渡すなら、支えも一緒に渡さなければいけない。

期待している。

任せる。

できると思う。

その言葉の後ろに、戻れる場所があるか。

失敗しても終わらない道があるか。

そこまで見ないと、期待は人をひとりにする。

優作はパソコンを閉じた。

森田は、期待されていた。

でも今日は、ひとりではなかった。

それだけで十分だったのかもしれない。

少なくとも、昨日よりは。

第45話へ続く。

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