第46話
説明できない疲れ
前話:森田は、任されることの嬉しさと怖さのあいだで揺れていた。優作は、期待は人を動かす力にもなるが、支えのない期待は人をひとりにすることを知った。任せるなら、戻れる場所も一緒に渡すこと。期待だけを置いていかないこと。そんな関わり方を、少しずつ覚え始めていた。
黒川からの返信が、来なかった。
午前中に送った資料レビュー。
いつもの黒川なら、昼前には返ってくる。
誤字。
論点の重複。
表現の曖昧さ。
根拠の不足。
どこを直せばいいか、必要以上に正確な言葉で返ってくる。
けれど、その日は何もなかった。
十四時を過ぎても、黒川のチャットは動かなかった。
優作は何度か画面を見た。
既読はついている。
でも、返事がない。
真壁も気づいたようで、黒川の席に近づいた。
「黒川、今日中にレビューいけるか」
黒川は画面を見たまま、少しだけ間を置いた。
「いけません」
短い返事だった。
会話が止まった。
黒川の「いけません」は、いつもの「できません」と少し違った。
できない理由を説明する前の言葉ではなかった。
説明を終えた後の結論でもなかった。
ただ、そこで終わっていた。
桐谷が空気を軽くしようとして、口を開いた。
「黒川さんにも、いけませんの日あるんすね」
いつもなら、黒川は何か返した。
「人間なので」くらいは言ったかもしれない。
でも、黒川は返さなかった。
画面を見たままだった。
桐谷の顔から、少しだけ笑いが引いた。
真壁が声を落とす。
「何か重なってるか」
黒川は、すぐには答えなかった。
優作も、椅子から少し体を起こした。
「黒川さん、何か負担が」
言いかけたところで、黒川がこちらを見た。
目だけが、少し疲れていた。
怒っているわけではない。
冷たくしているわけでもない。
でも、いつものように整理された目ではなかった。
「説明する必要がありますか」
静かな声だった。
その一言で、優作の言葉が止まった。
黒川は続けた。
「理由がないわけではありません」
少しだけ、呼吸を置く。
「ただ、理由にする体力がありません」
誰も何も言わなかった。
黒川は、また画面に視線を戻した。
「今日中にはできません。明日の午前であれば返せます」
それだけだった。
十分な報告だった。
それなのに、優作の中には、まだ聞きたい言葉が残っていた。
何があったのか。
どこがしんどいのか。
何を減らせばいいのか。
何を手伝えばいいのか。
助けたいから聞きたい。
状況を知りたいから聞きたい。
でも、その「聞きたい」は、黒川にまた説明を求めることだった。
疲れている人は、休みたいだけではない。
もう誰にも説明したくないところまで来ていることがある。
真壁が最初に動いた。
「分かった。明日の午前でいい」
黒川は小さく頷いた。
「ありがとうございます」
真壁は優作を見る。
「中村、今日必要な確認だけ分けるぞ」
「はい」
優作は資料を開いた。
レビューを待たなくても進められるところ。
今日中に判断しないと止まるところ。
明日で間に合うところ。
黒川が持たなくていいものを、ひとつずつ分けた。
美月が横から言った。
「表現の統一だけなら、こちらで見ます」
佐伯も手を挙げる。
「参照元の確認は、僕ができます」
桐谷が少し遅れて言った。
「営業っぽさの違和感なら、俺見ます」
黒川は何も言わなかった。
いつもなら、「営業っぽさとは何を指しますか」と聞き返したかもしれない。
でも今日は、何も言わなかった。
それでよかった。
誰も、黒川に理由を求めなかった。
誰も、励まさなかった。
誰も、「大丈夫ですか」と重ねなかった。
ただ、仕事を分けた。
それだけだった。
十分だった。
十六時前、黒川が席を立った。
鞄を持つ手が、少しだけ遅い。
真壁が声をかける。
「今日は上がれ」
黒川は頷いた。
「そうします」
桐谷が言いかけて、やめた。
たぶん、何か軽い言葉をかけようとしたのだと思う。
でも、やめた。
黒川はそれに気づいたのか、気づいていないのか分からない。
ただ、出口の前で一度だけ振り返った。
「すみません」
真壁がすぐに言った。
「謝らなくていい」
黒川は、少しだけ目を伏せた。
「では、失礼します」
ドアが閉まった。
その音が、いつもより静かに残った。
桐谷が、誰に言うでもなく呟いた。
「黒川さんでも、ああなるんすね」
美月が言った。
「黒川さんだから、ああなることもあると思います」
桐谷は黙った。
優作も黙っていた。
黒川は、いつも説明する人だった。
整理する人だった。
曖昧なものを、扱える形に変える人だった。
だから周りは、黒川なら説明できると思っていた。
黒川なら、言語化できると思っていた。
黒川なら、自分の状態も正確に出せると思っていた。
でも、それも期待だった。
説明できる人に、説明する役割を置き続けていただけだった。
「何があったの?」は、優しさの顔をしている。
でも、答える体力が残っていない人には、それもまた仕事になる。
その日の夕方、優作たちは必要な確認だけを終えた。
完璧ではなかった。
黒川がいれば、もっと正確にできたところはある。
でも、黒川がいないと回らない形にしていたことにも気づいた。
黒川の正確さに、知らないうちに寄りかかっていた。
黒川が説明するから。
黒川が見つけるから。
黒川が直すから。
そうやって、誰かの強みに見えるものは、少しずつその人の逃げ場を奪っていく。
「中村」
退社前、真壁が声をかけた。
「今日、お前、聞かなかったな」
優作は手を止めた。
「聞きそうになりました」
「だろうな」
真壁は少しだけ笑った。
「俺も聞きそうになった」
「はい」
「でも、聞かなくてよかった気がする」
優作は、画面を閉じた。
「理由を聞いた方が、助けやすいと思ってました」
「まあ、そういう時もある」
「でも今日は」
言葉が止まる。
真壁は続きを待った。
「説明しなくていい方が、助かる日だったのかもしれません」
真壁は頷いた。
「そうだな」
それだけだった。
翌朝、黒川からレビューが返ってきた。
時間は八時五十二分。
文面はいつも通り簡潔だった。
論点は三つに分かれている。
修正箇所も明確。
誤字もない。
黒川の文章だった。
けれど、最後に一行だけ添えられていた。
昨日は、理由を聞かれなかったことが助かりました。
優作は、その一文をしばらく見ていた。
何も聞かなかったことが、初めて誰かを助けた気がした。
聞くことが優しさになる時もある。
でも、聞かないことが優しさになる時もある。
説明しなくていい場所。
人は時々、そこにしか戻れないことがある。
優作は、黒川のレビューに返信した。
確認しました。
ありがとうございます。
それ以上は書かなかった。
理由を聞かないこと。
感謝を大きくしすぎないこと。
昨日の黒川を、今日の黒川に説明させないこと。
それもまた、必要な距離なのだと思った。
第47話へ続く。
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