『やさしさ迷惑73/100』

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学び
第73話
普通に答えてもらっていいですか

前話:優作は、早坂の反対を残したまま資料を使うと決めた。早坂は納得しなかった。優作は説明も謝罪もせず、「確認しました」とだけ返した。けれどそれさえ、“相手の怒りを尊重するため”という新しい言い訳にできる。自分たちは、自分の癖を知った。知ったことで、前より自分を説明するのが上手くなった。そして説明できることと、変わることはまったく別だった。

森田が優作の席に来た。

資料を一冊持っていた。

「中村さん、ちょっといいですか」

「はい」

「明日の説明会なんですけど」

森田は一ページ目を開いた。

「最初の二分、僕の言葉で話していいですか」

優作は、すぐに答えなかった。

43話。

森田が詰まった時、手を出さずに待った。

44話。

期待だけ渡さず、戻る場所を作った。

その記憶が一気に頭に浮かぶ。

「森田さん自身は」

言いかけたところで、森田が言った。

「普通に答えてもらっていいですか」

優作の言葉が止まった。

森田は、少し気まずそうだった。

「いいか、ダメかを聞いてます」

優作は資料を見る。

「いいです」

「ありがとうございます」

三秒だった。

それで終わるはずだった。

でも森田は、その場を離れなかった。

「あと」

優作が顔を上げる。

「最近、ちょっと話しかけづらいです」

優作は何も言えなかった。

森田は慌てて続ける。

「いや、前よりちゃんと聞いてくれてるんです」

優作は黙っている。

「前より、雑に扱われてない感じもします」

「はい」

「でも」

森田は言葉を探した。

「何か聞くと、すごい考えられるので」

「……はい」

「僕がそんなに難しいこと言ったかなって思います」

その言葉は、静かだった。

だから逃げられなかった。

相手を丁寧に扱おうとしすぎると、相手は自分が“丁寧に扱わなければ壊れる人間”にされた気がすることがある。

森田は周囲を見た。

黒川。

美月。

桐谷。

真壁。

早坂。

佐伯。

「最近、皆さん」

少し笑う。

「会話する前に、説明書読むみたいな顔しますよね」

桐谷が吹き出した。

「それはちょっと分かる」

黒川が桐谷を見る。

桐谷はすぐに口を閉じた。

森田がそれを見た。

「今のです」

桐谷が固まる。

「え?」

「笑っていいのに、止めましたよね」

桐谷は何も言えなかった。

森田は美月を見る。

「相沢さんも、僕が何か言うと、一回目をそらすようになりました」

美月の指が止まる。

「見すぎないようにしてます?」

美月は少し黙った。

「しています」

森田は頷いた。

「分かります」

言って、少しだけ笑った。

「いや、分かんないですけど」

美月も、ほんの少しだけ口元を動かした。

森田は黒川を見る。

「黒川さんも、最近メモしようとしてやめますよね」

黒川は、ノートを見た。

「はい」

「僕、別にメモされてもいいです」

黒川の眉が、少しだけ動いた。

「そうですか」

「はい」

「内容によりますが」

「それはそうですよね」

森田は笑った。

次に真壁を見る。

「真壁さんは、最近“どうしたい?”って聞くこと増えました」

真壁が苦い顔をする。

「悪いか」

「悪くないです」

森田は言った。

「でも、僕、たまに決めてほしいです」

真壁が黙る。

最後に、早坂を見る。

少しだけ迷った。

「早坂さんは」

早坂が言った。

「何ですか」

「怖いです」

会議室が止まった。

早坂の顔は変わらなかった。

森田は続けた。

「でも、分かりやすいです」

桐谷が、今度こそ少し笑った。

早坂は桐谷を見る。

桐谷の笑いが止まりかける。

早坂が言った。

「今のは笑っていいと思います」

桐谷が言う。

「許可されると笑いづらいんすよ」

今度は何人かが笑った。

美月も少し笑った。

黒川まで口元が動いた。

優作も笑った。

森田は、その様子を見てから言った。

「これくらいでいいんじゃないですか」

誰も返さなかった。

森田は続けた。

「僕、皆さんみたいにいろいろ分かんないです」

「自分がなんでこう言うのかとか」

「誰の何を背負ってるのかとか」

「その言葉が相手にどう刺さるかとか」

一拍。

「そんなに考えてないです」

その言葉に、誰かが少し救われそうになった。

でも森田は続けた。

「だから、たぶん普通に人を傷つけると思います」

空気が変わった。

「今も何か失礼なこと言ってるかもしれないです」

「でも」

森田は優作を見る。

「皆さんも、いっぱい考えてるのに傷つけてますよね」

誰も動かなかった。

痛かった。

かなり。

森田は、責めるつもりで言っていない。

それが一番痛かった。

考えた量と、相手を傷つけないことは比例しない。
むしろ「こんなに考えたんだから」と思った瞬間、自分の善意は反論しにくくなる。

優作は聞いた。

「森田さんは、どうしてほしいですか」

質問してから、

また「どうしてほしい」と聞いている。

と思った。

森田も少し笑った。

「ほら」

優作は苦笑した。

「はい」

「普通でいいです」

「普通が分からなくなってます」

優作が言うと、森田は少し考えた。

「じゃあ」

一拍。

「分からないまま喋ればいいんじゃないですか」

全員が黙った。

あまりにも雑だった。

雑すぎて、誰もすぐ反論できなかった。

黒川が言った。

「誤解の可能性が高まります」

「はい」

森田は頷く。

「じゃあ、誤解したら言います」

黒川は黙った。

美月が言う。

「言えない時もあります」

「はい」

「その時は?」

森田は少し考えた。

「分かりません」

美月が止まる。

森田は続けた。

「分かんないもの、全部先に何とかできます?」

誰も答えられなかった。

「僕は無理です」

森田は言った。

「だから、後で嫌だったって言われたら、たぶん謝ります」

早坂が少し目を細める。

「謝って終わるんですか」

「終わらないかもしれないです」

「それでも?」

「それでも、その時考えます」

早坂は何も返さなかった。

森田は資料を閉じた。

「じゃあ、最初の二分、自分の言葉でやります」

優作が言った。

「お願いします」

森田は頷いた。

「はい」

そのまま席を離れた。

誰も呼び止めなかった。

ドアが閉まる。

桐谷が小さく言った。

「強えな、森田」

早坂が言った。

「強いわけではないと思います」

桐谷が早坂を見る。

早坂は少しだけ間を置いた。

「……たぶん」

桐谷が笑った。

早坂も止めなかった。

夕方、森田から発表原稿が届いた。

台本とはかなり違った。

言葉は粗い。

説明の順番も少し悪い。

一箇所、数字も古かった。

優作は赤を入れた。

数字だけ。

それ以外は残した。

送る。

数分後。

森田から返事が来た。

了解です!

感嘆符が一つ。

優作は、それを見た。

機嫌がいいのか。

気を遣っているのか。

本当にただの感嘆符なのか。

考え始めた。

考えないようにした。

それでも考えた。

画面を閉じた。

閉じても考えた。

人を普通に扱うということが、何なのか。

最後まで分からなかった。

そして、分からないまま明日の説明会は来る。

第74話へ続く。


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