『やさしさ迷惑74/100』
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第74話
誰か止めてくださいよ
前話:森田は、優作たちに「普通に答えてもらっていいですか」と言った。人を大切に扱おうとするあまり、全員が会話の前に相手の“説明書”を読むようになっていた。森田は言った。分からないまま喋ればいい。誤解したら、その時に言えばいい。考え抜いたからといって、人を傷つけなくなるわけではない。そして翌日、森田は営業部向け説明会の最初の二分を、自分の言葉で話すことになった。
森田は、開始三十秒で間違えた。
優作には分かった。
大槻にも分かった。
黒川は資料から顔を上げた。
佐伯の指が止まった。
前方に座っていた営業部の社員たちは、まだ気づいていない。
森田は続けている。
「今回の運用では、初回確認を営業側で行ってから——」
違う。
そこは一次窓口だった。
昨日、変更した。
森田の手元の資料にも、そう書いてある。
でも森田は画面を見ずに、自分の言葉で話していた。
優作は口を開きかけた。
止まった。
森田の言葉を取らない。
詰まっても、すぐに助けない。
自分で戻ってくる時間を奪わない。
43話で覚えたことだった。
森田は続けた。
「営業側で確認して、問題がある場合は——」
大槻が優作を見る。
優作は小さく首を振った。
もう少し待つ。
大槻は黙った。
十秒。
森田は戻らない。
十五秒。
間違った前提のまま、次の説明へ進んだ。
二十秒。
営業部の一人が資料を見始めた。
二十五秒。
森田も、何かおかしいことに気づいた。
言葉が遅くなる。
「えっと」
資料を見る。
顔が変わった。
「あ」
会場が静かになった。
森田は、間違いに気づいた。
優作は思った。
ここだ。
でも、また止まった。
自分で言い直せるかもしれない。
森田は資料を見た。
口を開く。
閉じる。
もう一度開く。
「すみません」
声が細くなった。
「今の」
そこで止まった。
四十人ほどの視線が、森田に集まっていた。
大槻の体が前に動いた。
それでも、優作は一瞬迷った。
助けるのか。
待つのか。
その一瞬だった。
森田が優作を見た。
まっすぐ。
そして言った。
「中村さん」
会場中に聞こえた。
「ここ、助けてください」
優作の体が熱くなった。
立ち上がった。
「すみません。ここは昨日変更しています」
前へ出る。
「営業側ではなく、一次窓口で確認します。森田さんの説明が一つ前の運用と混ざりました」
森田が小さく頭を下げた。
優作は横に立った。
「森田さん、ここから続けられますか」
森田は息を吸った。
「はい」
優作は席に戻った。
森田はもう一度資料を見た。
「失礼しました」
今度は少し声が戻っていた。
「初回確認は一次窓口です」
説明は続いた。
誰も笑わなかった。
誰も責めなかった。
でも、何もなかったことにもならなかった。
森田の耳は最後まで少し赤かった。
「待つことが優しさだ」と覚えた瞬間、待つことを正解にしてしまう。
昨日誰かを救った優しさが、今日の誰かを見殺しにすることがある。
説明会が終わった。
営業部の社員たちは資料を持って出ていった。
大槻が森田の肩を軽く叩いた。
「後半よかったよ」
森田は笑った。
「ありがとうございます」
その笑顔を見て、優作は少し安心した。
安心してしまった。
森田は荷物をまとめながら言った。
「中村さん」
「はい」
「さっき」
優作は身構えた。
「助けてもらって、助かりました」
「はい」
森田は資料を閉じた。
「でも」
来た。
優作の胸が固くなる。
森田は、少しだけ言いづらそうにした。
「なんで、あんなに待ったんですか」
優作は答えられなかった。
森田は続けた。
「間違ってるの、分かってましたよね」
「分かってました」
「大槻さんも?」
大槻が頷いた。
「分かってた」
森田は二人を見る。
「じゃあ」
少しだけ声が強くなった。
「止めてくださいよ」
誰も何も言わなかった。
森田は怒鳴っていない。
でも、昨日までの森田とは少し違った。
「僕、自分で戻る練習したじゃないですか」
「はい」
「待ってもらったから、自分で言い直せたこともあります」
「はい」
「でも、今日のあれは」
森田は自分の胸を指した。
「無理でした」
優作の喉が詰まる。
「途中から、間違ってるって分かりました」
「はい」
「でも、四十人こっち見てて」
森田は笑いそうになった。
笑わなかった。
「頭、真っ白でした」
大槻が目を伏せた。
森田は優作を見る。
「誰か止めてくれると思ってました」
その言葉で、優作の胸の奥が落ちた。
待つ。
見守る。
奪わない。
森田の成長を信じる。
全部、正しそうだった。
でも、その正しさの中で、森田は助けを待っていた。
「僕」
森田は言った。
「自分で戻れる時もあります」
一拍。
「戻れない時もあります」
当たり前のことだった。
あまりにも当たり前だった。
なのに優作たちは、一度うまくいった方法を森田という人間に貼りつけていた。
この人は待てば戻れる人。
そういう人にしていた。
一度できたことを、その人の強さにしてしまうと、次にできなかった時、その人は弱くなったことにされる。
優作は言った。
「ごめんなさい」
森田の顔が少し曇った。
優作自身も気づいた。
まただ。
謝って終わろうとした。
「……いや」
優作は言い直した。
「今、謝って片づけようとしました」
森田は少し困った顔をした。
「そこまで分析しなくていいです」
優作が止まった。
大槻が吹き出しそうになった。
森田も少しだけ笑った。
「普通に、ごめんでいいです」
優作は何も言えなかった。
森田が言った。
「僕も、普通に怒ってるんで」
優作は森田を見る。
森田は目をそらさなかった。
「はい」
優作は言った。
「ごめんなさい」
今度は、それだけだった。
森田は、
「はい」
と答えた。
許したのかは分からなかった。
優作も確認しなかった。
帰り際、大槻が優作に言った。
「難しいですね」
「はい」
「助けすぎてもダメ」
「はい」
「待ちすぎてもダメ」
「はい」
大槻は少し考えた。
「じゃあ、どうするんですか」
優作は答えられなかった。
分からなかった。
大槻は、それ以上聞かなかった。
会議室には、森田が使った資料が一冊残っていた。
一次窓口。
その部分に、森田が強く引いた赤い線があった。
優作はそれを見た。
待つことを覚えた。
だから待った。
そして、助けるのが遅れた。
分からなかった頃ではない。
分かっていた今の方が、間違えた。
そのことが、前よりずっと痛かった。
第75話へ続く。