『やさしさ迷惑75/100』
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第75話
またルールにするんですか
前話:森田は説明会で説明を間違えた。優作たちは、自分で戻る時間を奪わないために待った。けれど森田は戻れなかった。「誰か止めてくれると思ってました」。一度森田が自分で立てた経験を、優作たちは“待てば戻れる人”という新しい決めつけに変えていた。助けすぎても奪う。待ちすぎても見捨てる。優作には、どこからが正解なのか分からなかった。
翌朝、黒川はホワイトボードに書いた。
発表者支援ルール。
桐谷が言った。
「早いっすね」
黒川の手が止まった。
黒川自身も、少し嫌な顔をした。
「はい」
消そうとする。
真壁が言った。
「待て」
黒川が振り返る。
「全部消す必要もないだろ」
黒川はペンを持ったまま止まった。
「では」
「まず話そう」
真壁が言った。
その言い方にも、真壁は少し迷った。
また場を回している。
でも、回さなければ始まらない。
真壁は続けた。
「昨日、どこで止めるべきだったか」
黒川が言う。
「発表者本人の言葉が五秒以上停止した時点で——」
「黒川さん」
森田の声だった。
入口に立っていた。
全員が振り返る。
森田は今日使う資料を取りに来ただけらしかった。
ホワイトボードを見る。
発表者支援ルール。
その文字をしばらく見ていた。
「これ」
黒川が答える。
「昨日の件を踏まえた改善案です」
森田は少し黙った。
「また僕をルールにするんですか」
黒川の顔が止まった。
誰もすぐには言葉を出せなかった。
森田は続けた。
「この前も、僕が詰まったから“待つ”になって」
「はい」
黒川が答えた。
「昨日は待ちすぎたから、今度は“何秒で助ける”になるんですか」
「秒数はまだ——」
黒川が言いかけて、止まった。
森田は笑わなかった。
「僕、実験ですか」
その一言は、黒川だけに向いていなかった。
全員に刺さった。
誰かを傷つけたあと、人はルールを作りたくなる。
もう二度と間違えないために。
でも、そのルールの材料にされた人は、もう一度自分の痛みを使われる。
真壁が言った。
「森田。ルールを作ること自体は」
「悪いって言ってません」
森田が遮った。
真壁が止まる。
森田は少しだけ声を落とした。
「ただ」
ホワイトボードを見る。
「昨日の僕の恥ずかしかった時間が、今朝には“発表者支援ルール”になるのが、なんか嫌です」
黒川はペンを置いた。
美月が言った。
「嫌だった、で止めてもいいと思います」
森田が美月を見る。
「はい」
美月は続けなかった。
理由を聞かなかった。
森田は少しだけ息を吐いた。
桐谷が言う。
「でもさ」
全員が桐谷を見る。
「次、同じことあったらどうする?」
森田は答えない。
桐谷は続けた。
「昨日みたいに待つのは違った」
「はい」
「じゃあ次、俺らは何見て動けばいい?」
森田は少し考えた。
「分かりません」
黒川が反応しかける。
森田は先に言った。
「分かんないじゃダメですか」
黒川の口が閉じた。
「僕だって」
森田は言った。
「昨日、助けてほしかったです」
「はい」
「でも次は、自分で戻れるかもしれない」
一拍。
「その時にすぐ取られたら、たぶん嫌です」
桐谷が頭をかいた。
「めんどくせえな」
森田が頷く。
「そうなんです」
今度は少しだけ笑った。
「僕も、自分でめんどくさいです」
その笑いに、桐谷も少しだけ笑った。
大槻が後ろから入ってきた。
「何の会議?」
「森田の取扱説明書作成会です」
桐谷が言った。
森田がすぐ返す。
「だから、それやめてください」
少し笑いが起きた。
大槻はホワイトボードを見る。
「何秒で助ける、とか決めるんですか?」
黒川が答えた。
「案として検討していました」
大槻は眉を寄せた。
「無理じゃないですか」
黒川が見る。
大槻は言った。
「お客さんの前で詰まった時なんて、その時によりますよ」
「本人の顔」
「相手の空気」
「間違いの大きさ」
「戻れそうか」
「こっちが入れる位置にいるか」
指を折りながら言う。
「全部違うのに、何秒でって無理でしょ」
黒川は黙った。
「じゃあ、どう判断しますか」
大槻は少し考えた。
「その場で」
黒川が眉を寄せた。
「基準がありません」
「ないですよ」
大槻は普通に言った。
「間違える時もあります」
黒川の顔が固くなる。
大槻は続けた。
「昨日は遅かった」
優作の胸が少し痛む。
「次は早すぎるかもしれない」
一拍。
「その時、また怒られればいいんじゃないですか」
会議室が静かになった。
あまりにも雑だった。
黒川が言う。
「怒られることを前提に運用するのは」
「運用じゃないです」
大槻が言った。
「人ですよね」
黒川の言葉が止まった。
早坂が初めて顔を上げた。
大槻は続けた。
「間違えたら、森田に“早いです”って言われる」
「遅かったら、“助けてくださいよ”って言われる」
「で、次ちょっと変える」
肩をすくめる。
「それじゃダメなんですか」
誰もすぐに答えられなかった。
一度傷つけると、人は「もう二度と傷つけない方法」を探したくなる。
でも、二度と間違えない関係なんて、最初から人間を相手にしていない。
黒川は、ホワイトボードの文字を見た。
発表者支援ルール。
ペンを持つ。
消した。
全部。
白くなる。
でも黒川は納得した顔ではなかった。
「私は、不安です」
言った。
大槻が見る。
「何がですか」
「次も同じ判断を誤ることが」
「誤るでしょ」
大槻は即答した。
黒川の顔が止まる。
「たぶん僕も誤ります」
大槻は続けた。
「森田も誤るし」
森田が頷く。
「中村さんも誤るし」
優作も何も言えなかった。
「だから嫌なんですけど」
大槻は言った。
「仕方なくないですか」
早坂が静かに言った。
「仕方ない、は嫌いです」
大槻が早坂を見る。
「ですよね」
「はい」
「でも、仕方ないこともありません?」
早坂は答えなかった。
正しさで返せなかった。
森田が資料を持ち直した。
「僕、今日も二分やります」
優作が顔を上げる。
森田は言った。
「昨日と同じところです」
「はい」
「もし間違えて」
一度止まる。
「助けてほしかったら、できるだけ言います」
優作は頷く。
森田が続けた。
「言えなかったら」
全員が待つ。
「その時は、その時です」
黒川には、たぶん一番嫌いな言葉だった。
その時は、その時。
再現性がない。
基準がない。
保証もない。
それでも黒川は、
「分かりました」
とは言わなかった。
少し考えてから、
「やってみます」
と言った。
森田は頷いた。
「お願いします」
その日の午後。
森田はまた一箇所、詰まった。
三秒。
五秒。
大槻が少し動く。
優作も動きかける。
森田が手を上げた。
「ちょっと待ってください」
自分で資料を見る。
七秒。
「今、戻ります」
戻った。
誰も助けなかった。
今度はそれでよかった。
たぶん。
終わったあと、誰も「正解だった」とは言わなかった。
次も同じでいいのかは、誰にも分からなかった。
第76話へ続く。