『やさしさ迷惑76/100』

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第76話  

全部読んでから質問するんですか

前話:森田の失敗を受け、黒川たちは「次はいつ助けるか」をルールにしようとした。森田は言った。「また僕をルールにするんですか」。一度うまくいった優しさを正解にすれば、次の失敗が始まる。大槻は言った。その場で判断する。間違えたら、また怒られればいい。保証のない言葉だった。けれど、森田はもう一度人前に立った。今度は「ちょっと待ってください」と自分で言い、戻った。

オンボーディング資料の試験運用には、若手社員が六人集まった。

入社一年未満。

異動してきた社員。

中途入社。

所属部署も年齢も違う。

優作たちが七十話近くかけて考えてきたことを、彼らは何も知らない。

「大丈夫です」の怖さも。

気づく係の苦しさも。

答え合わせを求める優しさも。

怒りを片づける危うさも。

心理的安全性という言葉の裏側も。

知らない。

ただ、資料を渡された六人だった。

優作は少し安心していた。

資料はかなり良くなった。

新人が最初に何をするか。

困った時の確認先。

自分で判断していい範囲。

上長へ確認する条件。

未確定情報。

仮対応先。

相談する時に必要な情報。

全部、具体的になった。

誰か一人の「気づき」に依存しない。

困っている本人も声を出せる。

迷った時に戻る場所もある。

以前より、確実に丁寧だった。

森田が説明を終えた。

大槻が言った。

「じゃあ、実際に見てもらって、分かりにくいところがあれば何でも言ってください」

六人が資料をめくる。

紙の音が続く。

優作は待った。

最初に手を挙げたのは、一番若そうな男性だった。

「すみません」

「はい」

森田が応じる。

男性は三ページ目を指した。

「質問する時って」

一度止まった。

「ここに書いてある確認を全部やってからの方がいいんですか」

優作の体が止まった。

三ページ目。

相談前チェック。

・FAQ確認  
・既存資料確認  
・一次窓口確認  
・エラー画面の保存  
・発生時刻の記録

質問する側が何を持ってくれば答えやすいか。

黒川が整理した。

佐伯が実際の問い合わせ例を入れた。

大槻も現場として「これがあると助かる」と言った。

必要な項目だった。

森田が答える。

「全部必須というわけでは」

男性が言った。

「でも、これが書いてあると」

資料を見る。

「全部やってないのに聞いたら、“まず読んで”って思われそうで」

誰も答えなかった。

別の女性が顔を上げた。

「私も、それ思いました」

優作の胸が少しずつ重くなる。

女性は続けた。

「すごく丁寧なんですけど」

その言葉に、全員が嫌な予感を持った。

「読むところ、多いですよね」

桐谷が資料を見る。

全十八ページ。

以前は十二ページだった。

分かりにくいものを具体化した。

誤解が起きそうなものを補足した。

誰かに判断を押しつけないよう条件を書いた。

困った時に選択肢があるよう導線を増やした。

六ページ増えていた。

人を困らせないように道を整えすぎると、道を外れることまで怖くさせる。

別の社員が言った。

「一個聞いていいですか」

「もちろんです」

優作が答える。

「これ」

相談先一覧を見る。

「どこに聞くか迷った時は、“相談先不明”の一次窓口ですよね」

「はい」

「その一次窓口に聞いていいか迷った時は?」

誰も答えられなかった。

社員は笑った。

冗談のつもりだった。

何人かも笑った。

でも、優作たちは笑えなかった。

笑えない優作たちを見て、その社員の笑いが止まった。

「あ、すみません」

優作の胸が落ちた。

今度は、この人に謝らせた。

ただ少し笑っただけなのに。

「いえ」

優作は言った。

すぐに続けた。

「今の、普通に面白かったです」

社員は少し困った顔をした。

もう遅かった。

面白いと説明された笑いは、面白くなくなっていた。

桐谷が顔を伏せた。

たぶん、笑いたかった。

でも、自分が笑いを使う意味を知りすぎて、笑えなかった。

試験運用は続いた。

今度は女性社員が言った。

「この、“無理な場合は早めに相談してください”って」

美月の目が動く。

「早めって、どれくらいですか」

真壁が資料を見る。

誰も決めていない。

「当日だと遅いですか」

「ケースによります」

真壁が答えた。

「じゃあ、ケースによるなら、私が判断するんですよね」

「そうですね」

「その判断に迷ったら?」

また。

戻る。

何度整えても、最後にはその人の判断が残る。

全部をルールにはできない。

全部を気づく人にも任せられない。

全部を本人にも返せない。

優作は、だんだん息が苦しくなった。

自分たちは何を作ったのだろう。

質問しやすくする資料。

困らないための資料。

誰か一人に負担を寄せない資料。

そのために、たくさん考えた。

考えた結果、

質問する前に確認することが増えた。

相談する前に考えることが増えた。

間違えないための道が増えた。

そして、その道から外れた時に、自分が悪いと思いやすい資料になっていた。

休憩中。

六人が席を外した。

会議室に、優作たちだけが残った。

誰もすぐには話さなかった。

最初に口を開いたのは佐伯だった。

「これ」

資料を見た。

「僕らが怖かったこと、全部入ってますね」

美月が顔を上げる。

佐伯は続けた。

「誰かが困るのが怖かった」

「誰かが言えないのが怖かった」

「誰かが気づけないのが怖かった」

「誰かが傷つくのが怖かった」

一ページずつめくる。

「だから、全部に道を作った」

黒川が資料を見る。

「必要な導線もあります」

「はい」

佐伯は頷く。

「でも」

十八ページ目を閉じた。

「僕だったら、これ読んだら」

少しだけ苦笑した。

「ちゃんと困らないといけない気がします」

誰も意味を理解できなかった。

佐伯は続けた。

「困り方まで、正しくしないといけない感じです」

その言葉で、美月の目が伏せられた。

早坂が低く言った。

「優しさの説明書ですね」

桐谷が言う。

「地獄じゃん」

今度は誰も止めなかった。

黒川が言った。

「では、項目を削りますか」

早坂が黒川を見る。

黒川は、自分で気づいた。

「……またですね」

真壁が椅子にもたれた。

「どうする」

全員が黙る。

優作を見る人はいなかった。

でも、優作は見られている気がした。

どうする。

また答えを出すのか。

削るのか。

残すのか。

簡単にするのか。

丁寧にするのか。

どちらを選んでも、何かがこぼれる。

優作は資料を開いた。

三ページ目。

相談前チェック。

一つ目。

FAQ確認。

優作はペンを持った。

消そうとした。

止まった。

これを消せば、問い合わせ側の負担は減る。

でも、受ける側の負担は増える。

誰かを楽にすると、誰かが持つ。

その事実が、今までよりはっきり見えた。

優作はペンを置いた。

「今日は」

全員が優作を見る。

「直さないでおきたいです」

黒川が少し眉を寄せる。

「試験運用の結果を反映しないという意味ですか」

「違います」

優作は資料を見る。

「今、俺たちが怖くなって直すと」

一拍。

「また、自分たちが安心する資料になる気がします」

早坂が何も言わずに優作を見る。

真壁が聞いた。

「じゃあ?」

優作は首を振った。

「分からない」

それだけだった。

誰も救われなかった。

答えも出なかった。

午後の試験運用は、修正前の十八ページで続けた。

若手たちはまた質問した。

優作たちは答えた。

うまく答えられないものもあった。

一人の社員が最後に言った。

「これって、全部読まないと質問しちゃダメですか」

優作はその人を見た。

資料を見る。

そして答えた。

「ダメじゃないです」

社員が聞く。

「じゃあ、どこまで読めばいいですか」

優作は、答えられなかった。

その沈黙のまま、試験運用は終わった。

資料は十八ページ。

赤字だらけ。

付箋だらけ。

考え抜いた痕跡だらけだった。

それなのに、いちばん簡単な質問に答えられなかった。

全部読まないと、質問しちゃダメですか。

優作は、その一文だけをノートに書いた。

その下には、何も書かなかった。

第77話へ続く。

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