『やさしさ迷惑77/100』

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第77話  
読んでないんですけど

前話:オンボーディング資料の試験運用が始まった。質問しやすくするために、相談先を明確にした。困らないために、確認項目を増やした。誰か一人の気づきに依存しない仕組みを作った。けれど若手社員から出たのは、「全部読まないと質問しちゃダメですか」という言葉だった。十八ページの資料には、優作たちが怖がったものが全部詰め込まれていた。

本格運用初日の午前十一時。

営業部の橋本が、佐伯の席に来た。

二十代半ば。

配属されてまだ三か月。

大槻の下で営業に出始めたばかりだった。

「あの、すみません」

佐伯が顔を上げる。

「はい」

橋本はスマホを持っていた。

「顧客情報の修正って、営業から直接システム部に出していいんでしたっけ」

佐伯は一瞬、答えなかった。

その質問は、資料に書いてあった。

七ページ目。

黄色い囲み。

しかも昨日の試験運用で、

「ここが分かりにくい」

と言われて書き直したばかりだった。

佐伯は聞いた。

「資料、見ました?」

橋本の顔が少し曇った。

「すみません」

一拍。

「まだ全部読めてなくて」

佐伯の胸の奥で、何かが動いた。

全部読んでから質問するんですか。

昨日、優作たちが答えられなかった問いだった。

だから、本当なら、

全部読まなくていいです。

と答えるべきなのかもしれない。

でも佐伯の頭には、昨日までの作業が浮かんだ。

十八ページ。

問い合わせ先。

仮対応。

文章修正。

差し替え。

夜まで残った日。

何度もやり直した導線。

佐伯は資料を開いた。

「七ページにあります」

声が、自分で思ったより硬かった。

橋本が、

「あ、すみません」

と言った。

また謝らせた。

佐伯は気づいた。

でも、もう止まらなかった。

「ここです」

画面を見せる。

「営業から直接ではなくて、一次窓口を通してください」

「はい」

「一応、一回資料見てもらって、それでも分からなかったら聞いてもらった方が」

そこまで言って、佐伯は止まった。

橋本はもう頷いていた。

「分かりました」

「いや」

佐伯は言い直そうとした。

橋本は笑った。

「すみません。ちゃんと読みます」

その笑い方が、少しだけ佐伯に似ていた。

大丈夫です。

と笑っていた頃の。

橋本は席に戻った。

佐伯は、七ページ目を開いたまま動けなかった。

「分からなかったら聞いて」は優しく聞こえる。  
でもその前に「ちゃんと調べてからね」が透けて見えたら、人は分からないまま黙ることを覚える。

昼過ぎ。

大槻がチームのところへ来た。

「ちょっといいですか」

真壁が顔を上げる。

「どうした」

大槻は少し困った顔をした。

「橋本がさっき、佐伯くんに聞いたみたいなんですけど」

佐伯の背中が少し固くなる。

「はい」

「別に佐伯くんが悪いとかじゃなくて」

早坂が大槻を見る。

大槻は気づいた。

「……これも余計?」

「続けてください」

早坂が言った。

大槻は咳払いをした。

「橋本が、“まず全部読んでから聞いた方がいいんですよね”って言ってて」

佐伯は何も言えなかった。

優作が聞く。

「そう言われたんですか」

佐伯は首を振る。

「全部とは言ってません」

「何て言ったの」

「一回資料を見て、それでも分からなかったら聞いてほしいと」

大槻が言った。

「まあ、普通ですよね」

佐伯は少しだけ救われそうになった。

大槻は続けた。

「でも現場って、そんなに読まないですよ」

その一言に、佐伯の顔が変わった。

「……読まない?」

「十八ページ全部は読まないです」

大槻は平然と言った。

「僕も全部は読んでないです」

会議室が止まった。

桐谷が言った。

「マジっすか」

「マジです」

「大槻さん、確認側じゃなかったっすか」

「必要なところは見ましたよ」

黒川の眉が少し動く。

「全体を確認していない状態で承認したということですか」

「承認っていうか」

「確認者として入っています」

黒川の声が硬くなる。

大槻も少し顔をしかめた。

「でも、現場で十八ページ頭から読む人、そんなにいないですよ」

佐伯が言った。

「じゃあ、何のために作ったんですか」

言った瞬間、空気が変わった。

佐伯自身も分かった。

これは資料の話だけではなかった。

あんなに考えた。

あんなに直した。

あんなに悩んだ。

それなのに、読まない。

大槻が少し黙った。

佐伯は止まれなかった。

「質問しやすくした方がいいって言われて、導線も変えました」

「はい」

「相談先も増やしました」

「はい」

「ケースも入れました」

「はい」

「それを読まないで質問されるなら」

一拍。

「僕らがあれだけ考えた時間って、何だったんですか」

誰もすぐに答えなかった。

痛かった。

佐伯の言葉が。

でも、たぶん多くの人が一度は思ったことがある言葉だった。

こんなに説明したのに。

あれだけ言ったのに。

マニュアルにも書いたのに。

メールしたのに。

何度も伝えたのに。

なんで読まない。

なんで覚えていない。

なんでまた聞く。

自分が苦労して作ったものほど、相手にも大切に扱ってほしくなる。  
その瞬間、相手のために作ったものが、自分の努力を尊重させる道具に変わる。

大槻は、すぐには答えなかった。

少し考えてから言った。

「佐伯くん」

「はい」

「その時間は、橋本が全部読むために使ったんですか」

佐伯の顔が止まった。

大槻は続ける。

「僕は、必要な時に必要なところへ戻れる資料だと思ってました」

黒川が言う。

「しかし、必要な情報へ到達するためには一定の事前理解が必要です」

「それはそうです」

大槻は頷く。

「でも」

資料を持ち上げる。

「読む人の仕事って、この資料を読むことじゃないですよね」

誰も答えなかった。

営業の仕事。

顧客対応。

電話。

見積もり。

商談。

トラブル。

その途中で資料を見る。

資料を読むために働いているわけではない。

分かっている。

分かっているはずだった。

佐伯は七ページ目を見た。

黄色い囲み。

見やすくした。

丁寧にした。

分かりやすくした。

そこまでやったのだから読んでほしい。

その気持ちは消えなかった。

消す必要があるのかも分からなかった。

早坂が言った。

「読まない人がいる前提で作るんですか」

大槻は言った。

「たぶん」

「では、読まなくても使える資料に?」

「それも無理でしょ」

大槻は笑わなかった。

「何も読まずに全部分かる資料なんて作れないですよ」

また答えがなくなった。

読んでほしい。

でも全部は読まれない。

聞いてほしい。

でも何でも聞かれたら仕事は止まる。

自分で調べてほしい。

でも、その言葉で聞けなくなる人もいる。

誰にも正解がなかった。

夕方。

佐伯のチャットに橋本からメッセージが来た。

先ほどはありがとうございました。  
資料、今一度確認します。

丁寧な文章だった。

佐伯は返信欄を開いた。

分からないところがあれば聞いてください。

打った。

手が止まった。

橋本からしたら、

まず読んでから。

という意味に見えるかもしれない。

消した。

全部読まなくても大丈夫です。

打った。

それも違う。

読まなくてもいいと言いたいわけではない。

佐伯は、しばらく考えた。

結局、

七ページの件は、一次窓口で大丈夫です。

とだけ送った。

送ったあと、ひどく不親切な文章に見えた。

でも、何を足しても別の意味が乗る気がした。

その夜。

橋本は資料を持ち帰った。

佐伯は、それを知らなかった。

第78話へ続く。
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