『やさしさ迷惑78/100』

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第78話  
書いてありますよね

前話:営業部の橋本は、資料をすべて読まないまま佐伯に質問した。佐伯は「一度資料を見てから」と答えた。誰かのために作ったはずの十八ページは、いつの間にか「これだけ考えたのだから読んでほしい」という作り手側の痛みまで背負っていた。大槻は言った。読む人の仕事は、この資料を読むことではない。読んでほしい。でも全部は読まれない。その夜、橋本は資料を持ち帰った。

翌日の十五時。

営業部から一本の電話が入った。

顧客情報の修正が、止まっている。

本来なら一次窓口を経由すべきところを、橋本が直接システム部へ依頼していた。

システム部は受付対象外として差し戻した。

その間に、顧客への回答が二時間遅れた。

大事故ではない。

クレームにもなっていない。

でも、現場では二時間が消えた。

大槻と橋本が会議室に来た。

橋本の顔は、昨日より硬かった。

真壁が聞いた。

「何があった」

橋本が説明した。

「僕が、システム部へ直接出しました」

「なぜ」

橋本は少しだけ黙った。

「前のやり方と混ざりました」

黒川が資料を開く。

七ページ目。

昨日、佐伯が見せたところ。

一次窓口を経由する。

はっきり書いてある。

黒川が言った。

「昨日、同じ箇所を確認していますね」

橋本が頷く。

「はい」

佐伯は何も言わなかった。

胸の中には、言葉があった。

昨日言った。

資料にも書いてある。

七ページ。

黄色い囲み。

ここです、と見せた。

それでも間違えた。

橋本が言った。

「すみません」

佐伯の中で、何かが少しだけ切れた。

「書いてありますよね」

会議室が止まった。

声は大きくなかった。

だから余計に鋭かった。

橋本は顔を上げた。

佐伯は七ページ目を指した。

「昨日もここ、見ましたよね」

「はい」

「一次窓口を通すって」

「はい」

「じゃあ、どうして」

優作が佐伯を見る。

止めるべきか迷った。

でも、佐伯の怒りを奪いたくない。

また。

その考えが浮かぶ。

優作は黙った。

橋本は小さく言った。

「僕のミスです」

佐伯はまだ腹が立っていた。

「ミスっていうか」

言葉が出る。

「ちゃんと書いてあるので」

その瞬間、美月の目が上がった。

早坂も佐伯を見る。

橋本は、

「はい」

と答えた。

それだけだった。

「書いてありますよね」は、事実であることが多い。  
だから強い。  
説明した側が、相手の失敗から降りるために使えるほど強い。

黒川が言った。

「今回については、資料記載と昨日の口頭確認の両方があります。橋本さん側の確認不足は否定できません」

橋本は頷いた。

「はい」

誰も否定できなかった。

実際、橋本は間違えた。

資料にも書いてあった。

昨日も聞いた。

橋本にも責任がある。

そこを全部「資料が悪かった」にすれば、それも嘘になる。

大槻が聞いた。

「橋本、昨日資料読んだ?」

「読みました」

佐伯が顔を上げる。

「全部?」

「はい」

一瞬、会議室が止まった。

大槻が聞き返す。

「全部?」

「昨日、帰ってから」

橋本は資料を見た。

「全部読みました」

十八ページ。

読んだ。

それでも間違えた。

佐伯は、少しだけ声を失った。

「じゃあ」

桐谷が言う。

「なんで間違えたの?」

橋本は答えた。

「分かりません」

誰かが苛立ちそうな答えだった。

本人も分かっていた。

橋本は続けた。

「昨日ここを聞いたので」

七ページ目を見る。

「ここは覚えてました」

「でも今日、顧客から電話が来て、急いでて」

「前にシステム部へ直接依頼したことがあって」

「そのまま、そっちに出しました」

黒川が言った。

「つまり、既存習慣が新運用を上回った」

橋本は少しだけ顔をしかめた。

「たぶん」

「再発防止としては——」

黒川が止まった。

自分で止めた。

橋本が言った。

「僕が気をつけます」

その言葉にも、誰も安心できなかった。

気をつける。

便利な言葉。

何も変えなくても言える言葉。

真壁が聞く。

「昨日全部読んで、分かりにくいところはなかった?」

「ありました」

「聞かなかった?」

橋本は、少し黙った。

佐伯の胸が嫌な形に沈んだ。

橋本は答えた。

「昨日、質問したので」

それだけだった。

真壁が待つ。

橋本は続けた。

「また聞くの、ちょっと嫌だったんです」

佐伯の顔から血の気が引いた。

「別のところですよ」

橋本は急いで言った。

「七ページじゃなくて、九ページの例外処理です」

「そこ、意味分かんなかったんですけど」

一拍。

「昨日一回、読まずに聞いちゃったので」

誰も動かなかった。

「今度はちゃんと読んでからにしようと思って」

「全部読んだんですけど」

橋本は少しだけ笑った。

苦い笑いだった。

「読んでも分からなくて」

「でも、また聞いたら、“また読んでないのかな”って思われそうで」

佐伯は何も言えなかった。

昨日の自分が戻る。

一回資料を見て、それでも分からなかったら。

普通の言葉。

間違っていない言葉。

でも橋本の中では、

次はちゃんとしろ。

になっていた。

佐伯は言った。

「僕は、そこまで言ってません」

橋本は頷いた。

「はい」

「そういう意味でも」

「分かってます」

橋本はすぐに答えた。

「僕が勝手にそう思っただけです」

その言葉は佐伯を救うはずだった。

でも、救われなかった。

勝手にそう思った。

なら、佐伯は悪くないのか。

橋本の受け取り方の問題なのか。

そんな簡単な話でもなかった。

言っていないことまで、相手は受け取る。  
だからといって、相手が受け取ったすべての責任をこちらが背負えるわけでもない。  その間にあるものを、人は簡単に「コミュニケーション不足」と呼ぶ。

早坂が言った。

「橋本さん」

「はい」

「今回、橋本さん自身の確認不足もあったと思いますか」

優作が早坂を見る。

橋本は頷いた。

「あります」

「資料の問題だけではない?」

「はい」

早坂はそれ以上何も言わなかった。

橋本の責任を消さなかった。

佐伯の責任だけにも、しなかった。

それでも答えは出ない。

大槻が腕を組んだ。

「じゃあ、どうするかな」

黒川が資料を見る。

「導線自体をさらに目立たせることはできます」

桐谷が言う。

「でも、読んでても間違えたんすよね」

「はい」

「じゃあ目立たせても」

「一定の改善効果はあります」

「一定ね」

桐谷は天井を見た。

真壁が言った。

「習慣を変えるなら、資料だけじゃ足りないかもしれない」

大槻が頷く。

「朝礼で毎日言います?」

早坂が言った。

「それはそれで鬱陶しいですね」

「ですよね」

大槻は笑った。

誰も答えを持っていなかった。

会議が終わる時、橋本が立ち上がった。

佐伯は呼び止めた。

「橋本さん」

「はい」

謝ろうと思った。

すみません。

昨日の言い方が。

でも、橋本にも確認不足があった。

全部を自分のせいにすれば、また話が歪む。

佐伯は、口を開いた。

「昨日の僕の言い方」

橋本が待つ。

「聞きづらくなったなら」

言葉が止まる。

何と言えばいい。

謝るのか。

認めるのか。

でも全部を持たないのか。

佐伯は結局、

「それは、知っておきます」

と言った。

橋本は少しだけ困った顔をした。

「はい」

それだけだった。

きれいではなかった。

むしろ、妙に距離のある言葉だった。

橋本が出ていく。

ドアが閉まった。

佐伯は七ページ目を見た。

正しいことが書いてある。

正しく書いてある。

昨日も説明した。

それでも、人は間違えた。

書いてありますよね。

その言葉だけが、まだ口の中に苦く残っていた。

第79話へ続く。
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