第79話
ちゃんと読んだから、聞けませんでした
前話:橋本は、資料に書かれている手順を間違えた。佐伯は「書いてありますよね」と言った。橋本には確認不足があった。それは消せない。でも橋本は、前日に一度「読まずに聞いた」ことを気にして、分からない箇所をもう一度聞けなくなっていた。説明した側にも、間違えた側にも、それぞれの責任があった。だからこそ、誰か一人を悪者にして終われなかった。
橋本から連絡が来なくなった。
二日間。
質問ゼロ。
佐伯は最初、それを良いことだと思った。
資料を読んでいる。
自分で確認できている。
運用が馴染み始めた。
もしかすると、あの一件で橋本自身も慎重になったのかもしれない。
三日目。
営業部から問い合わせが来た。
大槻ではなかった。
橋本でもない。
営業事務の女性からだった。
「橋本さんの案件なんですが、これ、確認止まってませんか」
佐伯が案件番号を確認する。
画面を開く。
止まっていた。
二日前から。
ステータスは、
確認中。
担当者、橋本。
佐伯は、背中に嫌な汗が出た。
大槻へ連絡する。
十分後。
橋本が会議室に来た。
手には、例の十八ページの資料を持っていた。
付箋だらけだった。
黄色。
青。
ピンク。
何度も開いた跡がついていた。
大槻が聞いた。
「橋本、これなんで止まってる?」
橋本は資料を開いた。
「判断できなかったので」
「二日?」
「はい」
「なんで聞かなかった?」
橋本は、すぐには答えなかった。
佐伯の胸が、もう答えを知っているように痛んだ。
橋本は言った。
「聞く前に、全部確認しようと思ってました」
会議室が静かになった。
「FAQも見ました」
「はい」
「既存資料も」
「はい」
「過去案件も検索しました」
黒川が橋本の資料を見る。
付箋。
書き込み。
参照ページ。
かなり調べている。
橋本は続けた。
「でも、このケースだけ載ってなくて」
佐伯が言う。
「だったら聞いてくれれば」
橋本が顔を上げた。
佐伯の声が止まる。
橋本は、少しだけ笑った。
「ですよね」
その笑顔が痛かった。
「僕もそう思います」
一拍。
「今なら」
誰も動かない。
橋本は資料を閉じた。
「でも、その時は」
言葉を探す。
「聞くのは、まだ早いと思いました」
「早い?」
大槻が聞く。
「はい」
「まだ調べ切ってないかもしれない」
「どこかに書いてあるかもしれない」
「前も、書いてあること聞いたので」
佐伯は目を伏せた。
橋本は続けた。
「今度は、ちゃんと読もうと思いました」
誰も何も言わない。
「ちゃんと読んだんです」
橋本は資料を持ち上げた。
「全部」
付箋だらけの十八ページ。
「でも」
橋本の声が少しだけ詰まった。
「ちゃんと読んだから、余計に聞けなくなりました」
優作は顔を上げた。
橋本は続けた。
「ここまで調べて分からないなら」
一拍。
「僕の理解力の問題なのかなって」
大槻が何か言いかけた。
止めた。
「聞いたら」
橋本は言う。
「“そこまで読んで、まだ分からないの?”って思われそうで」
佐伯はすぐに否定したかった。
思わないです。
そんなことないです。
聞いてください。
でも、その言葉さえ、
次からちゃんと聞いて。
という圧力になりそうで、出せなかった。
「自分で考えてから聞いて」は、人を育てることがある。
でも、自分で考えても分からない人に「まだ考え足りない」と思わせた瞬間、質問は能力不足の告白になる。
真壁が聞いた。
「橋本」
「はい」
「この二日、困ってた?」
橋本は少し考えた。
「困ってました」
「誰かに気づいてほしかった?」
橋本はもっと考えた。
「分かりません」
美月の指が止まる。
橋本は続けた。
「気づいてもらえたら、たぶん助かったと思います」
美月が顔を上げる。
「でも」
橋本は苦笑した。
「“困ってそうだったから声かけた”って言われたら、それはそれでちょっと恥ずかしいです」
美月は何も言えなかった。
気づく。
気づかない。
助ける。
助けない。
また、どちらにも痛みがある。
黒川が言った。
「では、一定時間ステータスが動かない案件を自動で検知する仕組みを」
全員が黒川を見る。
黒川は止まった。
「……今、また仕組みにしようとしました」
橋本が少し笑った。
今度は、ほんの少し本当に面白かったように見えた。
「でも、それはちょっと欲しいです」
黒川が顔を上げた。
「欲しい?」
「はい」
全員が少し驚いた。
橋本は続ける。
「二日止まってたら、“どうしました?”って来る仕組みは、僕は助かります」
美月が橋本を見る。
早坂が言った。
「監視されている感じはしませんか」
「するかもしれないです」
「それでも?」
「はい」
橋本は少し考えた。
「今回みたいに誰にも言えないよりは」
早坂は黙った。
優作は、そのやり取りを見ていた。
仕組みが悪いわけでもない。
仕組みにしないことが、人間らしいわけでもない。
黒川が表にするから救われる人もいる。
美月が気づくから救われる人もいる。
桐谷が笑わせるから救われる日もある。
真壁が勝手に持つから、場が崩れない日もある。
早坂が切ることで、やっと言えることもある。
佐伯の「大丈夫です」が、本当に大丈夫な日だってある。
優作の謝罪が、必要な時もある。
全部を悪癖にしてしまったら、
今度は、自分たちが持っているものまで使えなくなる。
優作は、少し怖くなった。
ここまで、自分たちはずっと削ってきた。
余計な優しさ。
余計な気づき。
余計な整理。
余計な笑い。
余計な責任感。
でも。
余計かどうかは、いつ決まるのだろう。
使う前か。
使った後か。
相手が助かった時だけ正解なのか。
傷ついた時だけ間違いなのか。
そんなことは、後からしか分からない。
人を傷つけた経験が増えるほど、何もしない人になることがある。
でも、何もしないことだけは、失敗に見えにくい。
大槻が言った。
「じゃあさ」
全員が見る。
「今の案件、どうする?」
その一言で、全員が少し現実に戻った。
橋本が言った。
「僕、確認先に聞きます」
佐伯が言う。
「僕も一緒に見ます」
言ってから、少し止まった。
「必要なら」
橋本はすぐに言った。
「お願いします」
佐伯は頷いた。
それだけだった。
二人はパソコンを開いた。
橋本が分からなかった箇所を見せる。
佐伯が説明する。
途中で佐伯も分からないところが出た。
黒川に聞いた。
黒川は調べた。
全部で十二分だった。
二日止まっていた案件は、十二分で動いた。
誰も、その十二分を褒めなかった。
褒められるような話ではなかった。
むしろ、その十二分が痛かった。
帰り際。
橋本は、十八ページの資料を鞄に入れようとした。
少し考えて、机に置いた。
佐伯が聞く。
「持って帰らないんですか」
橋本は言った。
「今日はやめます」
「はい」
「家で読むと」
少し笑う。
「またテスト勉強みたいになるので」
佐伯は何も言えなかった。
橋本は帰っていった。
机には資料が残った。
付箋だらけ。
読み込まれた跡だらけ。
ちゃんとしようとした跡だらけ。
優作は、その資料を見た。
読まない人を責めた。
だから読んだ。
読んだら、今度は聞けなくなった。
人を正しい方向へ動かしたつもりで、
別の場所に追い込んだ。
橋本が悪かったところもある。
佐伯が悪かったところもある。
資料が悪かったところもある。
誰も悪くなかったところもある。
その全部が混ざっていた。
優作は十八ページ目を閉じた。
明日から、この資料をどうするか。
まだ決まっていない。
でも一つだけ、もう言えない言葉が増えた。
ちゃんと読んでから聞いてください。
第80話へ続く。