第72話
言い訳だけ、上手くなる
前話:佐伯は、無理だと途中で気づいていた。それでも「大丈夫です」を撤回できなかった。優作も、佐伯の返事を“尊重する”という言葉で止めなかった。昔なら、気づかなかったで済んだ。今は違う。全員が、自分たちの癖を知っている。それでも同じことをした。以前より分かった人間になったのではなく、以前より上手に失敗しただけだった。
翌朝、大槻は修正版を見ながら言った。
「ありがとうございます。昨日、遅かったですよね」
優作が答える。
「少し」
大槻が佐伯を見る。
「佐伯くん、大丈夫でした?」
会議室が固まった。
大槻はすぐ気づいた。
「……なんか地雷踏みました?」
桐谷が顔を伏せた。
「いや」
優作は言った。
「地雷っていうか」
そこで止まった。
説明しようとした。
佐伯は「大丈夫です」と言ってしまう癖があって。
僕たちはそれを尊重しすぎて。
途中で負荷が高いことに気づいていたけれど。
そこまで考えた時、大槻が言った。
「なんか最近」
優作が顔を上げる。
「皆さん、説明長くないですか」
桐谷が小さく笑った。
「それ昨日も言ってましたよね」
「だって本当に長いんですよ」
大槻は悪びれなかった。
「僕、佐伯くんが今日働ける状態か聞いただけなんですけど」
佐伯が言った。
「働けます」
大槻は頷く。
「じゃあ、お願いします」
終わった。
三秒。
優作たちは、誰も何も言えなかった。
大槻が資料をめくる。
「それと、これ」
オンボーディング資料。
「明日から営業部で使っていいですよね?」
黒川が言った。
「一部、未確定情報があります」
美月が言う。
「読み手側に判断を残している箇所もあります」
早坂が言う。
「私はまだ、相談を促す文面に違和感があります」
真壁が言った。
「ただ、導入を止めるほどではない」
大槻は全部聞いた。
「で?」
全員が止まった。
「使うんですか、使わないんですか」
優作は資料を見た。
昨日の夜、佐伯を止められなかった。
その痛みがまだ残っている。
今日また自分が決める。
怖かった。
でも、この場で誰かが決めないと、大槻はまた待つ。
「使います」
優作が言った。
早坂が顔を上げる。
「私は反対です」
即答だった。
優作の胸が跳ねた。
「はい」
「“安心して相談できる環境を整えています”に近い発想が、まだ残っています」
「はい」
「言葉を変えただけで、設計は同じです」
優作は資料を見る。
「それでも出します」
早坂は黙った。
会議室の空気が変わった。
大槻は優作を見る。
「じゃあ、明日から使いますね」
「お願いします」
会議は次へ進んだ。
それだけだった。
でも、早坂はその後、一度も優作を見なかった。
会議終了後も。
資料を閉じる時も。
部屋を出る時も。
何も言わない。
優作は追いたかった。
「早坂さん」
呼び止めたかった。
理由を説明したかった。
期限があるから。
現場が待っているから。
未確定は明示したから。
反対意見は無視していないから。
全部、本当だった。
全部、自分を正しく見せる言葉にもできた。
優作は、呼び止めなかった。
早坂はそのまま出ていった。
自分の事情を説明できるようになると、人は少し危険になる。
どんな行動にも、それらしい理由をつけられるようになるからだ。
昼休み。
桐谷が優作の席に来た。
「早坂さん、ガチで怒ってない?」
「分からない」
「聞かないの?」
「聞いたら、許してほしいだけになる気がする」
桐谷が黙った。
優作は続けた。
「判断理由は説明できる」
「うん」
「でも、説明したところで反対なのは変わらない」
「うん」
「だから」
優作は少し迷った。
「今は、説明しない」
桐谷が優作を見る。
「それ」
「うん」
「“相手の怒りを尊重してます”っていう新しい逃げじゃない?」
優作の顔が止まった。
桐谷はすぐに手を上げた。
「俺も分かんねえけど」
その言葉さえ、逃げに見えた。
優作は何も返せなかった。
午後。
黒川が作業中に言った。
「今回は、私が整理しすぎないよう注意します」
その言葉を聞いた瞬間、優作は少し引っかかった。
黒川も気づいた。
「今の言い方は」
黒川は少し考える。
「整理する自分を正当化する前置きにも聞こえますね」
桐谷が言った。
「もう何言っても地獄じゃん」
少し笑いが起きた。
でも、笑ったあと、誰も楽にならなかった。
美月が資料を見ながら言った。
「私も最近、“先回りしないようにしています”と言うことがあります」
佐伯が美月を見る。
美月は続けた。
「でも、それを言うと、先回りしてしまった時に、自分を少し許せるんですよね」
誰も否定できなかった。
佐伯が、小さく言った。
「僕も、“大丈夫ですって言う癖があるので”って説明したことがあります」
一拍。
「説明すると、次また言っても、仕方ないと思えるんです」
早坂は少し離れた席で、その話を聞いていた。
優作とは目を合わせない。
それでも言った。
「自己理解って、便利ですね」
冷たい声だった。
優作の胸に刺さる。
早坂は続けた。
「自分の癖に名前がつくと、その癖をやった時の罪悪感まで説明できます」
誰も返さない。
「私は、人を切る癖があります」
早坂は言った。
「そう分かっているから、最近、切ったあとに“またやった”と思います」
一拍。
「でも」
早坂は初めて優作を見た。
「“またやった”って思うだけで、相手の傷が減るわけじゃない」
優作は、何も言えなかった。
目が合った。
早坂はすぐに視線を外した。
その距離が痛かった。
そして、優作はその痛みを、
「嫌われる場所に立てている証拠だ」
と解釈しかけた。
気づいた瞬間、吐き気がした。
早坂に嫌われているかもしれないことまで、自分の成長物語に使おうとした。
最悪だった。
「自分はこういう人間だから」は、自己理解にもなる。
でも、ときどきそれは、傷つけた相手の前で自分を許すための説明書になる。
夕方、早坂からチャットが来た。
資料の使用判断については了解しました。
私は反対のままです。
優作は返信欄を開いた。
反対意見が残っていることは認識しています。
打った。
消した。
判断理由を説明すると——
消した。
すみません。
消した。
結局、
確認しました。
だけ送った。
数秒後、既読がついた。
返事はなかった。
優作は、その既読を何度も見た。
説明しないのが正しいのか。
謝らないのが正しいのか。
追わないのが正しいのか。
分からない。
でも、自分の中にはもう、それぞれを正当化できる言葉が十分にあった。
それが一番怖かった。
第73話へ続く。