『やさしさ迷惑71/100』

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学び
第71話
分かっているのに、またやる

前話:優作は、自分がずっと「優しい人」に戻ろうとしていたことに気づいた。怒る自分、嫌だと言う自分、誰かを傷つける自分を切り離し、謝ればまた“いつもの優作”に戻れると思っていた。部長から「中村さんらしく柔らかく」と求められた時、優作は初めてその役割に戻ることを拒んだ。それでも、癖が消えたわけではなかった。

大槻から連絡が来たのは、十六時二十三分だった。

明日の営業部向け説明会で使う資料。

その実績数字が、四ページ分すべて変わった。

すみません。最新版が来ました。
明日九時使用なんですが、差し替え可能でしょうか。

優作が読み終えるより先に、佐伯が言った。

「大丈夫です」

速かった。

本当に速かった。

会議室にいた全員が、一瞬だけ佐伯を見た。

佐伯も気づいた。

気づいたはずだった。

けれど、言い直さなかった。

「数字だけですよね」

佐伯は大槻のメッセージを見ながら続けた。

「僕がやります」

美月の指が止まる。

優作も、佐伯の別案件が十七時締切なのを知っていた。

言うべきだった。

今の「大丈夫です」は違う。

一度、作業量を見よう。

前なら美月が言った。

もっと前なら、誰も言わなかった。

今なら。

今の自分なら。

優作はそう思った。

でも、口から出たのは、

「じゃあ、お願いしていい?」

だった。

佐伯が頷いた。

「はい」

会議は、そのまま進んだ。

誰も止めなかった。

止められなかったのではない。

止めなかった。

全員、一度は気づいていた。

佐伯も含めて。

それでも仕事は始まった。

人は、気づいたから変わるわけじゃない。
気づいたあとも同じことをして、そのたびに「知らなかった」という言い訳だけを失っていく。

十七時。

佐伯の別案件は終わっていなかった。

十七時二十分。

数字差し替えは二ページ目まで進んでいた。

十七時四十分。

佐伯の席の横に、未処理の資料が積まれていた。

優作は三回見た。

三回とも、声をかけなかった。

一回目は、

本人が引き受けると言ったから。

二回目は、

途中で声をかけたら、信用していないように見えるから。

三回目は、

もうここまでやっているのに、今さら止めたら余計に気まずいから。

理由は毎回違った。

でも、やっていることは同じだった。

放っておいた。

美月も、何度か佐伯を見た。

何も言わなかった。

気づいたものを全部拾わない。

それは美月が必死に覚えようとしていることだった。

でも、今拾わないことが「役割を降りる」なのか、「見捨てる」なのか、美月自身にも分かっていなかった。

十八時十分。

佐伯が席を立った。

コピー機へ向かう途中、机の角に手をついた。

ほんの一瞬だった。

桐谷が気づいた。

「佐伯、大丈夫?」

言った瞬間、桐谷が顔をしかめた。

でも、もう遅かった。

佐伯は反射的に言った。

「大丈夫です」

二人とも黙った。

桐谷が、

「いや、今の質問が悪かった」

と言おうとした。

でも、その言葉さえ、また佐伯に何かを返させる気がして止めた。

佐伯はコピー機へ行った。

何も訂正しなかった。

十八時四十六分。

四ページ目の数字が合わなかった。

黒川が気づいた。

「佐伯さん。この数字、参照元が違います」

佐伯は画面を見た。

一秒。

二秒。

三秒。

「すみません」

声が小さかった。

黒川は言った。

「責任の話ではありません。参照元を確認します」

正しい。

黒川は正しかった。

でも、その正しさが今の佐伯には届いていないように見えた。

佐伯はマウスを握ったまま言った。

「もう一度やります」

優作は、そこでようやく言った。

「佐伯」

佐伯が顔を上げる。

「一回、止めよう」

佐伯の顔が固まった。

「大丈夫です」

また出た。

三回目だった。

今度は、全員が聞いた。

佐伯自身も、もう分かっていた。

それでも佐伯は続けた。

「できます」

優作は、何も言えなくなった。

止めればいい。

今度こそ止めればいい。

でも、佐伯の「できます」を否定すれば、本人の判断を奪うことになる。

そんな言葉が頭に浮かんだ。

便利だった。

ものすごく便利だった。

「本人の意思を尊重する」

その言葉を使えば、自分が決めなくて済む。

優作は、そのことに気づいていた。

気づいていたのに、言った。

「……分かった」

佐伯は画面に戻った。

早坂が優作を見た。

何も言わなかった。

その視線だけが痛かった。

十九時十二分。

佐伯が修正版を上げた。

「確認お願いします」

黒川が確認する。

優作が確認する。

数字は合っていた。

桐谷が小さく言った。

「終わったな」

佐伯は椅子にもたれた。

笑わなかった。

誰も「お疲れ」と言えなかった。

優作は、佐伯の別案件がまだ残っていることを思い出した。

「佐伯、もう一個の方は」

佐伯は画面を見たまま答えた。

「終わってません」

その声に、優作の胃が縮んだ。

「それ、明日に」

「今日締切です」

優作は黙った。

「最初に、僕が大丈夫ですって言いました」

佐伯が言った。

誰も動かなかった。

「途中でも大丈夫ですって言いました」

「はい」

優作は答えた。

「でも」

佐伯が顔を上げた。

怒っているわけではなかった。

その方がつらかった。

「僕、途中で自分でも無理だって分かってました」

優作の喉が詰まった。

佐伯は続けた。

「十七時半くらいには、分かってました」

美月の手が止まった。

桐谷も目を伏せた。

「でも、もう言えなかったです」

「どうして」

優作が聞いた。

佐伯は少しだけ笑った。

「分かりません」

一拍。

「いや」

佐伯は首を振った。

「分かってます」

誰も動かない。

「一回“できます”って言った自分を、途中で撤回する方が恥ずかしかったです」

その言葉は、誰かを責めるものではなかった。

だから、余計に刺さった。

「あと」

佐伯は優作を見る。

「中村さんたちが、僕の返事を尊重しようとしてるのも分かったので」

優作の胸が冷えた。

尊重。

さっき、自分が逃げるために使った言葉。

佐伯は言った。

「だから、余計に言いにくかったです」

優作は何も返せなかった。

美月も。

黒川も。

桐谷も。

真壁も。

早坂も。

誰も。

みんな、以前より分かるようになった。

だから、以前より上手に失敗した。

相手を尊重したつもりで、見捨てることがある。
本人が決めたことだから、と言えば、こちらが止めなかった責任を持たずに済む。

優作は言った。

「僕が止めるべきだった」

佐伯はすぐに返した。

「それも、違うと思います」

優作の言葉が止まる。

「僕も止められました」

「はい」

「止めませんでした」

「はい」

「だから、中村さんだけの話にしないでください」

優作は頷いた。

「はい」

それ以上、何も言えなかった。

佐伯は席に戻った。

別案件を開いた。

優作は声をかけなかった。

今度は、それが正しいのか間違っているのか、もう分からなかった。

十九時二十分。

誰も帰らなかった。

頼まれていないのに。

全員が残った。

それが優しさなのか。

罪悪感なのか。

連帯なのか。

見張りなのか。

誰にも分からなかった。

分からないまま、キーボードの音だけが続いた。

第72話へ続く。

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