第70話
優しい人に戻りたかっただけ
前話:優作は、桐谷の「中村らしくないな」という言葉から、小学校の記憶を思い出した。大切にしていたシャープペンを勝手に使われ、やめてと言っても笑われた日。初めて強く怒った優作に、先生は「優作くんらしくないね」と言った。怒ったことではなく、“らしくない”と言われたことが残った。優作はそれから、怒る前に謝る人になった。謝ればまた、優しい人に戻れるから。
部長は、資料を一通り見てから言った。
「中村さんらしく、もう少し柔らかくできない?」
その瞬間、優作の指が止まった。
会議室には、優作と真壁だけがいた。
役員報告後の修正版を、部長に見せるための短い打ち合わせだった。
本当なら、十五分で終わるはずだった。
資料はまとまっている。
未確定項目も隠していない。
新人が最初に見るページも、初日の行動から始まる形に変えた。
相談先も、部署名ではなく役割名で整理した。
悪くない。
少なくとも、前よりは届く。
そう思っていた。
でも、部長の目は別のところを見ていた。
「全体的に、ちょっと硬いんだよね」
部長は画面を指した。
「“未確定”とか“現時点では出せない”とか、言葉が強い」
真壁は黙って聞いていた。
優作も頷いた。
部長は続けた。
「もちろん正確なのは大事なんだけど、読む側が不安になるでしょ」
不安になる。
その言葉が、優作の中で引っかかった。
読む側が不安になるから、未確定をやわらかくする。
読む側が受け取りやすいように、まだ決まっていないことを少し見えにくくする。
前なら、できた。
たぶん、かなりうまくできた。
検討中です。
順次整備予定です。
今後の運用に合わせて更新します。
関係部署と調整のうえ、ご案内します。
嘘ではない。
でも、見えにくくなる。
部長が言った。
「中村さん、そういう調整うまいじゃない」
うまい。
その言葉は、昔なら少し嬉しかった。
自分の役割がある。
必要とされている。
やわらかくできる。
場を壊さずに済む。
でも今は、その言葉が気持ち悪かった。
真壁が優作を見た。
何も言わない。
助け舟も出さない。
代わりにも言わない。
ただ、優作がどうするのかを待っている。
その待たれ方も、少し重かった。
部長は軽い調子で言った。
「中村さんらしい感じでまとめてくれればいいから」
中村さんらしい。
優作の喉が、ゆっくり狭くなった。
優作くんらしくないね。
昔の教室が、一瞬だけ戻る。
冬の窓。
ワックスの匂い。
落ちた筆箱。
泣きそうな亮太。
困った顔の先生。
ちゃんと謝れるよね。
優作は、自分の手が机の下で握られていることに気づいた。
怒っている。
たぶん、怒っている。
でも、怒りはまだ自分の中で形にならない。
形になる前に、謝罪が出ようとする。
すみません。
調整します。
柔らかくします。
部長の意図も分かります。
言えば、終わる。
優作らしく戻れる。
部長も安心する。
真壁も進行できる。
チームにも余計な摩擦を持ち帰らずに済む。
優作は、口を開いた。
「すみません」
言った瞬間、真壁の指が止まった。
優作自身も止まった。
また、戻ろうとしている。
優しい人に。
扱いやすい人に。
謝れば済む人に。
優作は、言葉を切った。
部長が少しだけ首をかしげる。
「ん?」
優作は、もう一度口を開いた。
「今の、すみませんではなかったです」
会議室が少し静かになった。
部長の顔から、軽さが少し消える。
真壁も何も言わない。
優作は画面を見た。
未確定。
現時点では出せない。
確認中。
硬い言葉。
でも、必要な言葉。
「この資料は、柔らかくしすぎない方がいいと思います」
部長は、少しだけ眉を上げた。
「どういう意味?」
「未確定のものを、整備予定という言葉にすると、決まっているように見えます」
「そこまで受け取るかな」
「受け取る人もいると思います」
言いながら、優作の心臓はうるさかった。
部長に反論している。
強くはない。
でも、逆らっている。
優作らしくない。
そう思われるかもしれない。
いや、もう思われているかもしれない。
それでも、続けた。
「新人向けの資料なので、未確定なら未確定と分かった方がいいです」
「でも、不安にさせない表現は必要でしょ」
「はい」
優作は頷いた。
「不安にさせないために、何が決まっていて、何が決まっていないかを分ける必要があると思います」
部長は椅子にもたれた。
「正論だね」
正論。
その言葉が少し刺さった。
正論と言われると、急に人から遠ざけられる感じがする。
でも、ここで引けばまた戻る。
優作は、息を吸った。
「正論に聞こえると思います」
真壁がわずかに顔を上げた。
「でも、柔らかく見せることで、後で現場が困ると思います」
部長は黙った。
優作は続けた。
「現場が困るというより、新人が困ります」
言い直した。
「相談先が未確定なのに、整備予定ですと書かれていたら、新人はそこにあるものとして探すかもしれません」
「うん」
「なかった時に、また現場が受けることになります」
部長は画面を見た。
真壁も黙っている。
優作は、ここで止めればよかった。
必要なことは言った。
でも、胸の奥にまだ何か残っていた。
怒りなのか。
怖さなのか。
昔の教室なのか。
分からない。
「僕は」
優作は言った。
声が少しだけ低くなった。
「柔らかくするのが、たぶん得意です」
部長は優作を見る。
「そうだね」
「でも、それで隠してきたものもあります」
真壁の顔が少し動いた。
優作は、真壁を見なかった。
「だから、この資料は、中村らしく柔らかくするより、読み手が迷わない方を優先したいです」
会議室が、重くなった。
部長はすぐには答えなかった。
その沈黙に、優作の体が反応した。
謝れ。
今ならまだ戻れる。
言い方が強かったです。
部長の意図は分かっています。
すみません、表現は再調整します。
そう言えば、戻れる。
でも、戻ったら何が残るのか。
自分が少し安心するだけではないのか。
優しい人でいることに慣れた人は、怒り方を忘れる。
怒った瞬間、相手を傷つけるより先に、自分が自分ではなくなる気がする。
部長は、少しだけ息を吐いた。
「中村さん、最近ちょっと変わったね」
変わった。
それは悪い意味にも、良い意味にも取れる言葉だった。
だから余計に苦しい。
優作は、何も返さなかった。
部長は続けた。
「悪いことじゃないけど、前はもう少し受け取りやすくしてくれてた印象がある」
前は。
もう少し。
受け取りやすく。
それはたぶん、部長にとって本音だった。
責めているわけではない。
困っているだけ。
いつもの優作が少し違うから。
扱い方が分からないから。
優作は、昔の先生の顔を思い出した。
困った顔。
怒っていない顔。
ただ、いつもの優作ではないものを見た時の顔。
優作は言った。
「前の僕の方が、扱いやすかったと思います」
部長が少し驚いた顔をした。
真壁も優作を見た。
優作は続けた。
「ただ、その扱いやすさで、誰かに負担を渡していたことがあります」
部長は黙った。
「今回の資料では、それをやりたくありません」
言い終えた瞬間、体が冷えた。
言った。
言ってしまった。
部長を責めたわけではない。
でも、部長の求めたものを拒んだ。
優作らしくない。
優しい人ではない。
扱いやすくない。
その場所に立ってしまった。
部長は、しばらく資料を見ていた。
「分かった」
軽い返事ではなかった。
納得したのか、不満が残ったのかは分からない。
「じゃあ、未確定は未確定で残す。その代わり、次にいつ確定するかは明記して」
優作は頷いた。
「はい」
「柔らかくじゃなくて、分かりやすく」
「はい」
「そこは中村さんに任せる」
任せる。
その言葉に、少しだけ安心しそうになった。
認められた。
戻れた。
そう思いかけて、優作は自分で止まった。
戻るために言ったのではない。
たぶん。
本当にそうかは、まだ分からない。
会議が終わったあと、廊下で真壁が言った。
「中村」
「はい」
「さっき、怖かったか」
優作は少しだけ笑った。
今度は、笑いで流すためではなかった。
「怖かったです」
「だろうな」
真壁は短く言った。
「俺も少し怖かった」
優作は真壁を見る。
「真壁さんも?」
「部長相手にああ言うのは、普通に怖いだろ」
それだけだった。
でも、その普通さが少しだけ刺さった。
怖がっていい。
そう言われたわけではない。
ただ、怖いものは怖いと置かれただけだった。
真壁は続けた。
「ただ、謝って戻らなかったな」
優作は黙った。
「戻りたかったです」
真壁は何も言わない。
優作は続けた。
「すごく」
その言葉は、自分でも思ったより正直だった。
「謝って、調整して、柔らかくして、いつもの自分に戻りたかったです」
真壁は小さく頷いた。
「うん」
「でも、戻ったら、たぶんまた隠すと思いました」
「うん」
「それが怖かったです」
真壁は、少しだけ視線を外した。
「怖いままやったなら、いいんじゃないか」
優作はすぐに救われそうになった。
でも、真壁は続けた。
「ただ、次も同じようにできるとは限らないけどな」
優作は苦く笑った。
「はい」
そこが、少しよかった。
次からできるようになった。
そういう話ではない。
今日はたまたま戻らなかっただけかもしれない。
明日はまた謝るかもしれない。
怖くなって柔らかくするかもしれない。
それでも、今日一度だけ、戻らなかった。
その程度だった。
席に戻ると、桐谷が近づいてきた。
「聞いたぞ」
「何を」
「部長に“中村らしく柔らかく”を拒否ったって」
優作は目を伏せた。
「拒否ったというか」
「拒否っただろ」
桐谷は少しだけ笑った。
でも、すぐに笑いを抑えた。
「怖かった?」
「怖かった」
「だよな」
桐谷は頷いた。
「俺ならたぶん、そこ笑いで逃げるわ」
「僕は謝りそうになった」
「中村っぽい」
言ってから、桐谷は一瞬止まった。
優作も止まった。
中村っぽい。
桐谷はすぐに言った。
「悪い」
優作は首を振った。
「いや」
少しだけ間を置いた。
「それは、たぶん今の僕にもある」
桐谷は黙った。
優作は続けた。
「謝りそうになる僕も、僕だから」
それは、言いながら自分で苦しかった。
謝る自分を全部否定したかった。
優しい人に戻ろうとする自分を、汚いものとして切り捨てたかった。
でも、それもまた自分を分けることになる。
怒った自分を、優作らしくないと切り捨てた時と同じように。
いい人ではない自分を認めることは、いい人の自分を捨てることではない。
捨てたふりをしたものほど、別の顔で戻ってくる。
午後、優作は資料を直した。
未確定項目は、未確定のまま残した。
その横に、確定予定日を書いた。
相談先が未定の箇所には、仮対応先を書いた。
安心して、という言葉は使わなかった。
不安に寄り添う、という言葉も使わなかった。
ただ、迷った時にどこへ行けばいいかを書いた。
文章は、いつもより少し硬かった。
でも、読み手に嘘をつく感じは少なかった。
美月からコメントが来た。
未確定のまま残した点、良いと思います。
ただ、二ページ目の「確認中」は、誰が確認しているかまで書いた方がいいです。
優作は返信した。
修正します。
それだけだった。
助かりました、とは書かなかった。
でも、心の中では少し助かっていた。
佐伯からもコメントが来た。
新人側から見ると、仮対応先があるのは助かります。
優作は少しだけ画面を見た。
助かります。
その言葉を、今日は素直に受け取りたいと思った。
でも、受け取りすぎるとまた確認になる。
難しい。
本当に難しい。
黒川からは、
未確定項目の明示により、後続対応の漏れが減ります。
桐谷からは、
硬いけど、嘘くさくない。
早坂からは、
「柔らかくない」のは良いです。
ただ、読む人に判断を投げている箇所が一つあります。
真壁からは、
この形で部長へ戻す。
それぞれのコメントが来た。
優作はそれを見ながら、少しだけ息を吐いた。
誰も、優作を優しい人として戻してくれなかった。
それが少し寂しかった。
でも、少しだけ必要だった。
夕方、部長へ修正版を送ったあと、優作は会議室に入った。
昨日、半端に曲がった椅子があった場所。
椅子はまだ、少しだけ斜めだった。
誰も直していない。
真壁も。
優作も。
誰も。
優作はその椅子を見た。
まっすぐに直そうかと思った。
でも、手を出さなかった。
斜めのままにした。
何かの象徴にしたかったわけではない。
そういうふうにきれいに意味をつけるのは、もう少し嫌だった。
ただ、今日は直さなかった。
それだけだった。
スマホが震えた。
母からだった。
久しぶり。元気?
仕事、無理してない?
優作は昔から優しいから、抱え込みすぎないでね。
優作は、その文を見た。
優しいから。
その言葉は、母にとって褒め言葉だった。
たぶん、本当にそうだった。
悪意なんてない。
心配しているだけ。
でも、優作の胸には重く落ちた。
優しいから。
抱え込みすぎないで。
その言葉の中に、怒る優作はいなかった。
嫌だと言う優作も。
面倒だと思う優作も。
誰かを傷つける優作も。
優作は返信欄を開いた。
大丈夫だよ。
打って、止まった。
まただ。
いつもの返事。
母が安心する返事。
自分も優しい息子に戻れる返事。
優作は消した。
少し考えて、こう打った。
無理してる時もある。
でも今日は、少しだけ言いたいことを言った。
送信ボタンの前で、指が止まった。
母は驚くだろうか。
心配するだろうか。
何があったの、と聞くだろうか。
面倒になるかもしれない。
優しい息子らしくないかもしれない。
それでも、優作は送った。
すぐに既読はつかなかった。
優作はスマホを伏せた。
少し怖かった。
かなり怖かった。
でも、送ってしまった。
優作は会議室の椅子を見た。
斜めのままの椅子。
まっすぐではない。
でも、倒れてもいない。
その中途半端さに、今日は少しだけ腹が立たなかった。
優しい人に戻りたかっただけ。
その言葉を、優作はやっと自分の中で見つけた。
ずっと相手のためだと思っていた。
傷つけないため。
場を壊さないため。
誰かを困らせないため。
もちろん、それもあった。
でも、それだけではなかった。
自分が戻りたかった。
優しい人に。
怒らない人に。
許される人に。
扱いやすい人に。
その場所が安全だったから。
優作は、その安全な場所にずっと帰りたかった。
そして今日は、少しだけ帰れなかった。
帰れなかったことが、成長なのかは分からない。
ただ、不便だった。
怖かった。
寂しかった。
それでも、戻らなかった。
会議室の明かりを消す。
暗くなった部屋の中で、椅子の輪郭だけが残った。
優作はドアを閉めた。
廊下に出ても、胸の奥はまだ落ち着かなかった。
優しい人ではない自分は、まだ居場所を持っていない。
第71話へ続く。