『やさしさ迷惑69/100』

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学び


第69話
優作くんらしくないね

前話:優作は、誰にも何も言えなくなっていた。美月に聞けば見させる。佐伯に聞けば答えさせる。黒川に聞けば整理させる。桐谷に聞けば軽くさせる。真壁に聞けば持たせる。早坂に聞けば切らせる。配慮のつもりで全員を役割として見ていたことに気づいた優作は、会議室で半端に曲がった椅子を見つめていた。その時、古い声が戻った。優作くんらしくないね。

朝、優作は目覚ましより先に起きた。

眠った感じがしなかった。

目を閉じていた時間があっただけだった。

洗面台の鏡に映った顔は、ひどく疲れているわけではない。

寝不足の顔。

少し目の下が重い顔。

会社に行けないほどではない顔。

そういう顔が、一番扱いづらい。

倒れていれば休める。

熱があれば理由になる。

泣いていれば誰かが気づく。

でも、少しだけ壊れている人間は、普通にネクタイを結べてしまう。

優作は歯を磨きながら、昨日の廊下を思い出した。

桐谷の声。

中村らしくないな。

桐谷は悪気なく言った。

いつもの軽さで。

そのあとすぐ、言葉を引っ込めた。

でも、引っ込められた言葉ほど、体の中に残ることがある。

中村らしくない。

その言葉は、昔の声と重なった。

優作くんらしくないね。

小学校五年生の教室だった。

冬だった。

窓の近くの席は寒かった。

床にはワックスの匂いが残っていて、ストーブの近くに集まった子たちの声が少しだけ大きかった。

優作は、その頃から怒らない子だった。

怒らないというより、怒る前に笑う子だった。

何かを取られても、

「いいよ」

と言った。

列に割り込まれても、

「先でいいよ」

と言った。

自分の意見と違うことになっても、

「そっちでもいいよ」

と言った。

本当にいい時もあった。

でも、よくない時もあった。

よくなくても、いいよと言えば、場は進んだ。

先生はよく言った。

「中村くんは穏やかで助かるね」

母も言った。

「優作は優しいね」

友達も言った。

「中村って怒らないよな」

それは褒め言葉だった。

少なくとも、最初は。

その日、優作の机の上には、青いシャープペンがあった。

父が出張先で買ってきたものだった。

特別高いものではない。

でも、優作はそれを大事にしていた。

ノックする部分が透明で、中の小さなバネが見える。

授業中にそれを見るのが好きだった。

同じ班の亮太が、それを勝手に取った。

「これ、かっこよくね」

優作は言った。

「返して」

声は普通だった。

亮太は笑った。

「ちょっとだけ」

隣の子も笑った。

亮太はシャープペンを指の上で回そうとして、落とした。

床に当たる音がした。

優作は拾った。

芯が折れていた。

先端に小さな傷がついていた。

亮太は言った。

「ごめんごめん」

軽かった。

いつもの軽さだった。

優作は、もう一度言った。

「やめて」

亮太は、少し驚いた顔をした。

「そんな怒んなよ」

怒っている。

そう言われた瞬間、優作は自分が怒っていることに気づいた。

胸の中が熱かった。

手が強く握られていた。

亮太はまだ笑っていた。

「中村のくせに」

その言葉で、何かが切れた。

優作は、亮太の手を強く払った。

机の上の筆箱が落ちた。

消しゴムが転がった。

教室が一瞬、静かになった。

亮太が固まった。

次の瞬間、亮太の顔が歪んだ。

「なんだよ」

声が震えていた。

泣く一歩手前の声だった。

優作は自分の手を見た。

自分が何をしたのか、すぐには分からなかった。

亮太は泣いた。

大声ではなかった。

でも、教室の中では十分だった。

先生が来た。

「どうしたの」

誰かが言った。

「中村が急に怒った」

急に。

優作の胸が、また熱くなった。

急にじゃない。

返してと言った。

やめてと言った。

何回も。

でも、それを説明する前に、先生は優作を見た。

少し困った顔だった。

責める顔ではなかった。

だから、余計に逃げ場がなかった。

「優作くん」

先生は、優しい声で言った。

「優作くんらしくないね」

その瞬間、優作の怒りは行き場を失った。

悪いことをしたと言われたわけではない。

手を出してはいけませんと言われたわけでもない。

相手の物を勝手に取ってはいけません、と亮太が叱られたわけでもない。

ただ、優作は“優作らしくない”と言われた。

怒った自分は、自分ではないと言われた気がした。

いつもの優作。

穏やかな優作。

怒らない優作。

譲れる優作。

先生が知っている優作。

みんなが安心して扱える優作。

そこからはみ出した自分は、間違いのように見られた。

先生は続けた。

「ちゃんと謝れるよね」

謝れるよね。

できるよね。

優作なら。

優作は亮太に謝った。

「ごめん」

亮太も謝った。

「俺もごめん」

それで終わった。

終わったことになった。

でも、その日から優作は、怒る前に自分を見るようになった。

これは、優作らしいか。

今この言葉を出したら、今までの自分が崩れないか。

相手が驚かないか。

周りが引かないか。

先生のあの顔が戻ってこないか。

そう考えるようになった。

「あなたらしくないね」は、優しい注意に聞こえる。
でも言われた側は、そこで許される感情の範囲を覚えてしまう。

中学でも、高校でも、優作はだいたい同じだった。

感じがいい。

話しやすい。

怒らない。

揉めない。

謝れる。

誰にでも合わせられる。

便利な言葉だった。

優作自身も、その言葉の中で楽をした。

怒らなくていい。

対立しなくていい。

強く言わなくていい。

嫌な顔をしなくていい。

何かあれば、自分が少し引けばいい。

謝ればいい。

笑えばいい。

その方が、自分が自分でいられる気がした。

大学のゼミでも、会社に入ってからも、優作はよく謝った。

すみません。

僕の確認不足です。

こちらで調整します。

大丈夫です。

その言葉を出すたびに、場は少しやわらいだ。

相手の表情も戻った。

空気も戻った。

自分も戻れた。

怒られる側に立つのは怖かった。

でも、謝る側に立てば、まだ優しい人でいられる。

優作は、ずっとそれを誠実さだと思っていた。

全部が嘘だったわけではない。

本当に申し訳ない時もあった。

本当に相手を傷つけたくない時もあった。

でも、その中にはいつも少しだけ混じっていた。

早く戻りたい。

いつもの自分に。

優しい人に。

怒らない人に。

扱いやすい人に。

誰かを困らせない人に。

謝れる人が、いつも誠実とは限らない。
謝ればまた“いい人”に戻れると知っている人もいる。

会社に着くと、桐谷が先にいた。

珍しかった。

桐谷は自販機の前で缶コーヒーを持っていた。

「おはよ」

「おはよう」

それだけで通り過ぎればよかった。

でも桐谷は少しだけ優作を見た。

「昨日のさ」

優作の足が止まった。

「中村らしくないってやつ」

桐谷は缶コーヒーのプルタブを触った。

「悪かった」

優作はすぐに言いそうになった。

大丈夫。

気にしてない。

こっちこそ。

でも、言葉が喉の手前で止まった。

桐谷は続けた。

「軽く言った」

「うん」

「でも、軽くなかったっぽい」

優作は、少しだけ笑おうとした。

できなかった。

「刺さった」

桐谷が黙った。

優作は自分でも驚いた。

刺さった、と言えたことに。

それだけなのに、指先が冷たくなった。

桐谷は、いつものように茶化さなかった。

「どこに?」

優作は答えようとした。

小学校の話。

シャープペン。

亮太。

先生。

優作くんらしくないね。

言えるはずだった。

でも、言葉にした瞬間、あの教室がここに来る気がした。

桐谷の前に、小学生の自分を置くことになる。

それはまだ嫌だった。

「まだ、分からない」

優作は言った。

桐谷は頷いた。

「そっか」

それだけだった。

その短さが、少し助かった。

でも、少し物足りなかった。

聞いてほしいのか、聞いてほしくないのか。

近づいてほしいのか、放っておいてほしいのか。

自分でも分からない。

人は本当に面倒だ。

自分も含めて。

十時の会議で、優作は修正版を共有した。

昨日、早坂に刺された文面。

反応を薄めずに受けます。

その一文は削っていた。

代わりに、こう書いた。

資料の指摘として確認をお願いします。

それでも、どこか硬かった。

美月が画面を見る。

黒川がメモを取る。

佐伯が資料に目を落とす。

真壁が進行表を開く。

桐谷は缶コーヒーを机に置いた。

早坂は、何も言わずに資料を見ていた。

真壁が言う。

「中村、まず変更点を」

優作は頷いた。

「一ページ目と二ページ目を入れ替えました。新人が最初に知りたいのは会社全体の説明より、初日に何をすればいいかだと思ったからです」

早坂が頷いた。

「その方が自然です」

黒川も言う。

「導線として合理的です」

佐伯が続ける。

「確認先ページにもつながりやすいです」

美月は、少しだけ間を置いて言った。

「冒頭文も短くなっています。前より読めます」

前より読めます。

褒め言葉ではない。

でも、十分だった。

優作は「ありがとうございます」と言いそうになった。

止めた。

言えば、美月に承認を返させる流れになる気がした。

それが正しいかは分からない。

ただ、今日は止めた。

会議は進んだ。

大きな問題はなかった。

それなのに、優作の胸の奥はずっとざらついていた。

何も失敗していない。

誰も強く責めていない。

場も壊れていない。

なのに、どこかでずっと警報が鳴っている。

怒るな。

強く言うな。

崩すな。

優作らしくいろ。

会議の終盤、早坂が一箇所を指摘した。

「この文章、まだ書き手側がいい人に見えようとしています」

優作の手が止まった。

早坂は資料を見ている。

「“安心して相談できる環境を整えています”ではなく、具体的にどこへ相談するかを書けばいいです」

優作は頷いた。

「修正します」

その声は普通に出た。

でも、胸の奥だけが強く反応していた。

いい人に見えようとしている。

資料の話だ。

分かっている。

でも、優作自身にも言われた気がした。

いい人に見えようとしている。

優しい人に見えようとしている。

傷つけない人に見えようとしている。

それは自分のことではないのか。

会議が終わり、優作は席に戻った。

パソコンを開く。

資料を直す。

安心して相談できる環境を整えています。

その一文を削る。

相談先は以下です。

そう書き換える。

文章は簡単に直った。

自分は、直らなかった。

夕方、優作はふと、古いシャープペンのことを思い出した。

あれをいつ捨てたのか覚えていない。

壊れたわけではない。

使えなくなったわけでもない。

たぶん、いつの間にか別のペンに替えた。

あの日の怒りも、同じだった。

壊れたわけではない。

消えたわけでもない。

ただ、使わなくなった。

使わないうちに、持っていることを忘れた。

忘れたふりをしていた。

優作は机の下で手を握った。

あの日、自分は怒っていた。

ちゃんと怒っていた。

それは、優作らしくなかったのではない。

それも、優作だった。

そう思った瞬間、胸が少し痛んだ。

救われたからではない。

むしろ、今まで切り捨ててきた自分が、急に戻ってきたようで気持ち悪かった。

退勤前、桐谷が横を通った。

「中村」

「うん」

「今日、ちょっと顔怖かったぞ」

優作は固まった。

桐谷はすぐに手を振った。

「悪い。怖いって言うとあれだな」

優作は首を振った。

「いや」

少しだけ間を置いた。

「怖くてもいいのかもしれない」

桐谷は、少しだけ目を丸くした。

「おお」

優作は自分で言った言葉に、少し遅れて動揺した。

怖くてもいい。

本当にそう思えているわけではない。

ただ、そう言ってみただけだった。

桐谷は、茶化さなかった。

「そっか」

それだけ言って、歩いていった。

優作は席に残った。

優作くんらしくないね。

その声は、まだ消えない。

でも今日は、その声に少しだけ言い返したかった。

らしくない自分も、自分だった。

けれど、そう言い切るには、まだ怖すぎた。

第70話へ続く。


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