第68話
誰にも何も言えない
前話:美月は、気づけない人になりたいと思った。改札前で困る女性、母からのLINE、会議中の小さな沈黙、桐谷の飲み込んだ笑い、黒川の閉じたノート、真壁が直さなかった椅子。見たくなくても見える。気づいたあと、動くのか、黙るのかまで背負わされる。美月は、気づける自分を捨てたいのに、気づけない人にはなれなかった。
優作は、チャットを五つ開いていた。
真壁へ。
美月へ。
佐伯へ。
黒川へ。
桐谷へ。
早坂へのチャットだけは、開いていなかった。
開けば、何を書いても切られそうだった。
いや、切られるのが怖いのではない。
切られて当然のことを書きそうな自分が怖かった。
優作は、まず真壁への欄に打った。
今日の役員報告の件、こちらで一部持ちます。
消した。
真壁を助ける顔をして、また真壁に「助かる」と言わせたいだけかもしれない。
美月への欄には、こう打った。
今日の「気づき」の指摘、助かりました。
消した。
助かりました。
その言葉で、美月をまた“気づく係”に戻す。
佐伯には、
資料の修正、大丈夫ですか。
消した。
最悪だった。
大丈夫ですか。
その言葉が、今の佐伯にどれだけ雑に刺さるか、もう分かっている。
黒川には、
昨日の保留ファイルの件ですが。
消した。
保留しているものを、こちらから開かせるのは違う。
桐谷には、
最近、無理に笑わなくていいから。
消した。
それこそ、笑う人を壊れ物にする言葉だった。
優作は、五つの空欄を見ていた。
何も送れない。
言葉がないのではなかった。
ありすぎた。
言葉の先に、誰がどう傷つくかが見えすぎる。
見えすぎると言えるほど、自分は見えていない。
でも、見えた気になったものが邪魔をする。
送信ボタンの前で、全部止まる。
優しさは、もう使い方を間違える刃物に見えた。
謝罪も。
心配も。
確認も。
感謝も。
助け舟も。
全部、持ち方を間違えれば誰かを切る。
だから、優作は何も言えなくなっていた。
傷つけない言葉を探しすぎると、最後には何も言わないことを優しさにしてしまう。
十時の会議で、優作は全体接続を担当していた。
昨日、真壁から受け取った役割だった。
各ページのつながり。
新人が最初に読む順番。
部署別の情報の置き方。
未確定項目の扱い。
本来なら、優作がいくつか判断しなければならない。
でも、判断すると誰かに負担が寄る。
美月に見せれば、また気づかせる。
佐伯に聞けば、言わせる。
黒川に整理させれば、項目化する。
桐谷に文面を頼めば、軽くする。
真壁に相談すれば、持たせる。
早坂に意見を求めれば、切らせる。
そう考えるたび、優作の言葉は止まった。
真壁が聞いた。
「中村、全体の順番はどう見る」
優作は画面を見た。
一ページ目。
会社の全体像。
二ページ目。
初日の流れ。
三ページ目。
困った時の確認先。
四ページ目。
部署別ルール。
五ページ目。
メンター向け補足。
順番は悪くない。
でも、一ページ目がまだ重い。
新人には、最初に会社の全体像より、今日何をすればいいかを出した方がいい。
そう思った。
言えばいい。
「初日の流れを先頭にしましょう」
それだけでいい。
でも、黒川が構成を作った。
美月が冒頭文を見ていた。
佐伯が確認先を整えた。
桐谷が現場向けの読みやすさを見ていた。
真壁が役員報告で一度この順番を出している。
早坂は「読み手起点ではない」と言うかもしれない。
全部が頭に浮かんだ。
優作は言った。
「今のままでも、大きくは問題ないと思います」
言った瞬間、自分で分かった。
逃げた。
美月の指が少しだけ止まった。
黒川は資料を見る。
佐伯は何も言わない。
桐谷が優作を見た。
真壁のペンが止まった。
早坂は、優作ではなく画面を見ていた。
その沈黙に、優作の心臓が嫌な音を立てた。
真壁が言う。
「大きくは、か」
「はい」
「小さくは?」
優作は喉が詰まった。
そこを聞かれると思っていなかった。
いや、聞かれるべきだった。
自分で出した曖昧さだ。
「初日の流れを、先頭にした方がいいかもしれません」
「理由は」
「新人が最初に知りたいのは、会社の全体像より、今日何をすればいいかだと思うので」
早坂が言った。
「それを最初に言わなかった理由は何ですか」
優作は、早坂を見た。
言葉が出なかった。
「思いついていなかったわけではないですよね」
逃げられない。
優作は目を伏せた。
「誰かの作業を否定する形になると思いました」
早坂は返さなかった。
その代わり、美月が静かに言った。
「否定ではなく、判断です」
優作は頷いた。
「はい」
黒川も言った。
「順番変更には合理性があります」
佐伯が続ける。
「確認先のページは、後ろに回っても大丈夫です」
桐谷が言う。
「最初に“今日やること”がある方が、読まれやすいっすね」
真壁がペンを動かした。
「じゃあ変える」
それだけだった。
それだけで済んだ。
誰も壊れなかった。
誰も責めなかった。
なのに優作は、そこまで言う前に、勝手に全員を危ういものとして扱っていた。
配慮の顔をして。
また。
何も言わない人は、誰も傷つけていないように見える。
でも、その沈黙で、判断の重さを別の誰かに渡していることがある。
会議後、桐谷が廊下で優作の横に並んだ。
「中村」
「うん」
「今日、黙り方が変だったぞ」
優作は苦笑しようとして、できなかった。
「変だった?」
「変だった」
桐谷は少しだけ歩調を落とした。
「なんか、全員の地雷原を空から見てる人みたいだった」
「地雷原」
「踏まないようにしすぎて、一歩も動けてない感じ」
優作は何も返せなかった。
桐谷は、少しだけいつもの調子で言った。
「中村らしくないな」
その瞬間、優作の足が止まった。
廊下の音が遠くなる。
中村らしくない。
桐谷はすぐに気づいた。
「悪い。今の」
優作は首を振った。
「いや」
声が少し掠れた。
「大丈夫」
言ってから、自分で嫌になった。
大丈夫。
何が。
どこが。
桐谷は、もう笑っていなかった。
「今の、なんか刺さった?」
優作は答えられなかった。
刺さった。
でも、何に刺さったのか分からない。
分かりたくなかった。
頭の奥で、古い声がした。
優作くんらしくないね。
誰の声だったのか。
先生だった気がする。
教室だった気がする。
誰かが泣いていた気がする。
自分は、怒っていた気がする。
でも、その記憶はまだ輪郭を持たなかった。
ただ、「らしくない」という言葉だけが、胸の奥から出てきて、喉に引っかかった。
桐谷が言った。
「中村」
「うん」
「今、聞かない方がいいやつか」
優作は少しだけ笑った。
笑えたわけではない。
顔がそう動いただけだった。
「分からない」
桐谷は頷いた。
「そっか」
それ以上、聞かなかった。
聞かれないことで助かった。
でも、少し置いていかれた気もした。
本当に面倒くさい。
人のことを面倒だと思ってきたのではない。
自分が、これほど面倒な人間だったのだと、最近になって知ってしまった。
午後、優作は資料の接続部分を一人で直した。
一ページ目と二ページ目を入れ替える。
冒頭文を短くする。
確認先ページへの導線を移す。
修正は進んだ。
でも、途中でまた止まる。
この一文を美月に見せるべきか。
この表を黒川に確認してもらうべきか。
この説明を桐谷に読んでもらうべきか。
この導線を佐伯に当てるべきか。
この全体を真壁に戻すべきか。
この違和感を早坂に聞くべきか。
考えて、考えて、何も出せなかった。
一時間後、真壁が来た。
「中村、修正版は?」
優作は画面を見た。
「まだ、出せていません」
「どこで止まってる」
優作は、答えられなかった。
どこ。
資料ではない。
言葉でもない。
誰かの反応でもない。
全部だった。
「分かりません」
真壁は少しだけ眉を寄せた。
「分からない?」
優作は頷いた。
「誰に何を確認すればいいのか、分からなくなっています」
真壁は黙った。
優作は続けた。
「美月さんに聞くと、また見させる気がします」
美月の席には聞こえていないはずだった。
でも、優作は少し声を落とした。
「佐伯に聞くと、答えさせる気がします」
「黒川さんに聞くと、整理させる気がします」
「桐谷に聞くと、軽くさせる気がします」
「真壁さんに聞くと、持たせる気がします」
「早坂さんに聞くと、切らせる気がします」
言いながら、優作は自分がどれほど失礼なことを言っているか分かっていた。
全員を役割で見ている。
美月が最も嫌がったことを、自分はまだやっている。
黒川を。
桐谷を。
真壁を。
早坂を。
佐伯を。
それぞれの痛みごと、役割として並べている。
真壁はしばらく何も言わなかった。
それから、静かに言った。
「中村」
「はい」
「それは、相手を大事にしてるようで、誰のことも信用してないようにも聞こえる」
優作は、息が止まった。
真壁の声は責めていなかった。
だから、逃げられなかった。
「相沢は、見せられたら必ず壊れるのか」
「……いえ」
「佐伯は、聞かれたら必ず無理をするのか」
「いえ」
「黒川は、整理しかできないのか」
「いえ」
「桐谷は、軽くするだけか」
「いえ」
「早坂さんは、切るだけか」
優作は、少し黙った。
「いえ」
真壁は頷いた。
「なら、確認しろ」
優作は顔を上げた。
真壁は続けた。
「傷つけるかもしれない」
「はい」
「間違えるかもしれない」
「はい」
「でも、何も言わないことで、今お前は全部を一人で抱えようとしてる」
優作は何も言えなかった。
「それは、俺の悪い癖と似てる」
真壁はそう言って、少しだけ苦く笑った。
「似なくていい」
その言葉は、少しだけ優しかった。
でも、優作は救われなかった。
救われるには、自分がまだ何を恐れているのか分かっていなさすぎた。
いい人でいたい人は、相手を傷つける前に、自分が嫌われる場面を想像する。
そして、その怖さを相手への配慮だと思い込む。
夕方、優作は全員に修正版を送った。
文面は短かった。
修正版です。
一ページ目と二ページ目を入れ替えました。
違和感があれば、資料の話として指摘してください。
反応を薄めずに受けます。
送った瞬間、胸が重くなった。
強すぎたかもしれない。
また、自分の決意表明を全員に読ませているのかもしれない。
「反応を薄めずに受けます」なんて、言われた側は指摘しにくくなるかもしれない。
自分はまた、正しくあろうとして、周りに気を遣わせているのかもしれない。
送ったあとでも、間違いが増える。
優作は、送信済みの文面を見ながら吐きそうになった。
すぐに、美月から返信が来た。
確認します。
次に黒川。
確認します。
佐伯。
確認します。
桐谷。
見る。
真壁。
見る。
早坂からは少し遅れて来た。
「反応を薄めずに受けます」は、読んだ側に配慮を要求しているように見えます。
資料は確認します。
優作は、画面の前で止まった。
やっぱり。
そう思った。
やっぱり、間違えた。
何かを言えば、どこかで間違える。
丁寧に言っても、間違える。
正直に言っても、間違える。
黙っても、間違える。
動いても、動かなくても、どちらにも傷がある。
優作は返信欄を開いた。
ご指摘ありがとうございます。
消した。
すみません。
消した。
確認しました。
それも違う気がした。
結局、何も返せなかった。
夜、フロアに人が少なくなってから、優作は会議室に入った。
斜めのままの椅子が、まだ残っていた。
真壁が直さなかった椅子。
誰も直さなかった椅子。
優作は、それを直すべきか迷った。
直せば、場を整える。
直さなければ、誰かの選択を尊重する。
そんな意味まで勝手につけている自分が、本当に嫌だった。
椅子は、ただ斜めなだけだ。
優作は椅子に手をかけた。
少しだけ動かした。
また止めた。
結局、半端な角度で残った。
まっすぐでもない。
斜めでもない。
一番気持ちの悪い位置だった。
優作は、その椅子を見ていた。
自分みたいだと思った。
そう思った瞬間、また何かをきれいにまとめようとしている気がして、嫌になった。
優作くんらしくないね。
古い声が、また戻る。
今度は少しだけ、教室の匂いがした。
ワックスの床。
冬の窓。
机を引く音。
誰かの泣く声。
自分の手が、強く握られていたこと。
そこまで浮かんで、消えた。
優作は会議室の明かりを消した。
誰にも何も言えない。
そう思った。
でも、何も言わなければ、また誰かに何かを持たせる。
そのことだけは、もう分かっていた。
分かっているのに、言えない。
優作は暗くなった会議室の中で、半端に曲がった椅子をしばらく見ていた。
第69話へ続く。