『やさしさ迷惑67/100』

記事
学び
第67話
気づけない人になりたい

前話:早坂凪は、前職で「本音で話せる場」を少しだけ信じた。会議の中では「言ってくれてありがとう」と受け入れられた。けれど会議の外で、少しずつ外された。話していい場所ほど、話した後が怖い。だから早坂は、近づかれる前に切るようになった。けれどその刃は、桐谷を雑に切った。早坂は、自分もまた人をひとまとめにしていたことを知ってしまった。

美月は、改札前の女性が困っていることに気づいた。

朝の駅だった。

人の流れは速い。

誰も止まらない。

女性はバッグの中を何度も探していた。

スマホを持ち、財布を開き、また閉じる。

後ろには数人が並び始めている。

駅員は少し離れた場所にいた。

たぶん、交通系ICが見つからない。

たぶん、スマホ決済もうまく開けない。

たぶん、後ろの人の視線に焦っている。

そこまで、美月には見えた。

見えてしまった。

声をかければいい。

「大丈夫ですか」

「駅員さん呼びましょうか」

それだけで済む。

でも、足が動かなかった。

大丈夫ですか、と言った瞬間、その人は“大丈夫ではない人”になる。

手伝いましょうか、と言った瞬間、美月はまた“気づいて助ける人”になる。

そんな理屈を考えている間に、後ろの男性が少し苛立った顔をした。

女性の肩が、さらに小さくなる。

美月は一歩だけ近づいた。

でも、声が出なかった。

次の瞬間、駅員が気づいて近づいた。

「どうされましたか」

女性は少し頭を下げた。

列は隣の改札へ流れた。

何も壊れなかった。

美月が動かなくても、場は終わった。

誰かが困って、誰かが助けた。

世界はそれで済んだ。

それなのに、美月の胃の奥は重かった。

助けられなかったからではない。

助けなくても済んでしまったことが、どこかで怖かった。

自分がいなくても、場は回る。

自分が気づいても、動かなくても、世界は進む。

それは自由のはずだった。

でも、美月には少し、罰のようにも感じた。

気づくことをやめたいのではない。
気づいたあとに、動かなければいけない自分をやめたいだけだった。

会社に着くと、真壁が会議室の前に立っていた。

椅子が一脚だけ、斜めのまま残っている。

真壁はそれを見ていた。

でも直さなかった。

美月は、それにも気づいた。

直さないようにしている。

たぶん、昨日から。

自分が全部整えなくても場は始まるのかを、真壁は試しているのかもしれない。

そこまで考えて、美月は目を伏せた。

まただ。

また、人の中に入っている。

真壁が本当にそう思っているかなんて、分からない。

ただ椅子を直さなかっただけかもしれない。

疲れていただけかもしれない。

気づかなかっただけかもしれない。

美月は、自分の席に着いた。

パソコンを開く。

メール。

チャット。

資料。

文章は裏切らない。

主語がない文章は、主語がない。

接続が悪い文章は、接続が悪い。

重複している情報は、重複している。

人の沈黙より、ずっと扱いやすい。

十時の確認会で、優作が資料を映した。

オンボーディング資料のメンター向けページ。

そこに、こう書かれていた。

困っている新人がいたら、早めに気づき、声をかけましょう。

美月の目が、その一文で止まった。

早めに気づき。

声をかけましょう。

正しい。

たぶん、正しい。

新人を放置しないためには必要だ。

でも、その言葉の中には、あまりにも簡単に“気づく人”が置かれていた。

気づける人がいる前提。

気づいた人が動く前提。

気づけなかった人の罪悪感も、気づいたのに動かなかった人の苦しさも、そこには書かれていない。

優作が聞いた。

「このページ、どうでしょうか」

誰もすぐには答えなかった。

黒川は文言を見ている。

桐谷は口元を触っている。

佐伯はメモを取っている。

早坂は、少しだけ目を細めていた。

真壁は進行表を見ながら、美月を見ないようにしていた。

美月は、気づいた。

全員が、この一文を自分に言わせたがっているわけではない。

でも、自分が言えば一番早い。

それにも気づいた。

「相沢さん」

優作が名前を呼んだ。

すぐに、言い直した。

「いえ」

美月は顔を上げた。

優作は少しだけ目を伏せた。

「文章上の違和感があれば、お願いします」

その修正にも気づいた。

人の内側ではなく、文章上。

美月が見ていい範囲を、優作なりに置き直したのだろう。

それが配慮なのか、恐れなのか、学びなのか。

考え始めて、美月はまた嫌になった。

美月は資料を見た。

「“早めに気づき”は、削った方がいいと思います」

優作が頷く。

「理由は」

「気づくことを、個人の能力に置きすぎています」

黒川がメモを取る。

美月は続けた。

「新人が困った時に、誰かが気づけるかどうかに依存するより、困りごとが上がる導線を作った方がいいです」

言いながら、美月は自分で分かった。

また、言っている。

また、見つけている。

また、正しい場所に置いている。

仕事として必要な指摘だった。

でも、自分がその言葉を言うことが、少しだけ気持ち悪かった。

早坂が言った。

「同意です」

美月は、早坂を見なかった。

見れば、そこにも何かを探してしまう。

桐谷が言う。

「じゃあ、“困った時にここへ出せる”みたいにします?」

「はい」

美月は答えた。

「困っている人に気づく、ではなく、困っている本人が出せる場所を明記する方がいいと思います」

佐伯が小さく頷いた。

「その方が、言いやすいです」

美月は、その声の奥に何かを感じた。

佐伯の過去の「大丈夫です」が、少しだけ薄く揺れたように見えた。

でも、美月はそこに触れなかった。

触れなかったことにも、佐伯は気づいたかもしれない。

美月は、もう分からなかった。

何かを見れば、見すぎる。

見ないようにすれば、避けている。

言えば役割に戻る。

言わなければ冷たい。

正しい指摘をしても、その中に自分の古い癖が混じる。

どこにも、きれいな場所がない。

気づける人は、見つけたものだけを苦しむのではない。
見つけたあと、動くのか、黙るのか、その選択まで背負わされる。

昼休み、美月は母からのLINEを見た。

昨日はごめんね。
お父さん、今日は普通にしてるから大丈夫。

普通にしてる。

大丈夫。

その二つの言葉で、実家の食卓が戻った。

父の箸の音。

母の作り笑い。

弟の無邪気な声。

自分が入れたお茶。

よく気がつくね。

美月は返信しなかった。

返信しないまま、画面を閉じた。

でも、気づかないふりはできなかった。

母が本当に大丈夫なのか。

父は何も言わなかったのか。

母は、美月に「もう気にしなくていい」と言いたいのか。

それとも、「気にしてくれてありがとう」と言いたいのか。

考えてしまう。

勝手に読む。

勝手に疲れる。

誰にも頼まれていないのに。

給湯室で紙コップに水を入れていると、早坂が入ってきた。

早坂は一瞬、美月を見た。

それから、何も言わずにポットの前に立った。

その距離が、少し楽だった。

美月は水を飲んだ。

早坂のスマホが震えた。

早坂は画面を見た。

指が止まった。

ほんの一秒。

美月は見てしまった。

まただ。

早坂はすぐにスマホを伏せた。

美月は聞かなかった。

聞かないと決めた。

でも、聞かないことを早坂に見せているような気がして、それも嫌だった。

早坂が言った。

「見ましたか」

美月は、少しだけ息を止めた。

「見えてしまいました」

「そうですか」

早坂は湯呑みにお湯を入れた。

美月は言った。

「聞きません」

早坂は少しだけ笑った。

笑いというより、口元が動いただけだった。

「聞かない宣言も、少しうるさいですね」

美月は黙った。

早坂は続けた。

「でも、聞かれるよりはましです」

美月は、紙コップを持つ手に力を入れた。

「私は」

声が出た。

出してから、止められなかった。

「私は、気づけない人になりたいです」

早坂は何も言わなかった。

「人の表情も、声の揺れも、返信の遅さも、黙った理由も」

美月は紙コップを見た。

「全部、ただの出来事として見たいです」

水の表面が、少しだけ揺れていた。

「でも、見えるんです」

早坂は、ポットの蓋を閉じた。

音が小さく響いた。

「見えることと、入っていいことは違います」

「分かっています」

美月は言った。

すぐに、言い直した。

「分かっているつもりです」

早坂は美月を見た。

「つもり、でいいんじゃないですか」

美月は少しだけ顔を上げた。

早坂は続けなかった。

助言ではない。

慰めでもない。

ただ、それだけだった。

美月は、その短さに少しだけ救われそうになった。

救われそうになった自分が、嫌だった。

午後の会議で、美月は必要なことだけを言った。

それでも、見えた。

桐谷が笑いに逃げそうになって、舌で奥歯を押したこと。

黒川がメモを取りかけて、ノートを閉じたこと。

真壁が椅子を直しそうになって、やめたこと。

佐伯が「大丈夫です」と言いそうになって、「確認します」に変えたこと。

優作がその全部を見て、見ていないふりをしたこと。

早坂が、誰にも寄らない顔をしながら、ほんの少しだけ疲れていること。

全部、見える。

見えてしまう。

美月は何も言わなかった。

言わなかった分だけ、体の中に溜まっていく。

会議が終わり、席に戻ると、優作からチャットが来ていた。

今日の修正、確認しました。
「早めに気づき」の削除、反映します。

それだけだった。

美月は返信した。

お願いします。

送ったあと、もう一文打ちかけた。

気づくことを前提にしない導線にしてください。

消した。

さっき言った。

もう伝わっている。

それ以上言えば、また自分が担ぎ直す。

美月はパソコンを閉じた。

定時を少し過ぎていた。

席を立つと、佐伯がこちらを見た。

一瞬だけ。

すぐに目を戻した。

美月は、それも見た。

佐伯が何か言いたいのか。

何も言いたくないのか。

分からない。

分からないまま通り過ぎた。

それだけなのに、背中が重かった。

会社を出て、駅へ向かう途中、朝の改札が見えた。

もう、あの女性はいなかった。

当たり前だった。

何も残っていない。

美月が助けなかったことも。

駅員が助けたことも。

後ろの人が少し苛立ったことも。

誰も覚えていない。

世界は、思っていたより簡単に進む。

美月は立ち止まらずに歩いた。

気づけない人になりたい。

でも、なりたいと思っている時点で、もう気づいている。

そのことが、いちばん嫌だった。

**気づかない人は楽なのではない。
ただ、気づいてしまう人には、気づかない人の呼吸が想像できない。**

ホームで電車を待っていると、母からまたLINEが来た。

今日は返信しなくて大丈夫だからね。

美月は、その一文を見た。

返信しなくて大丈夫。

それは優しさかもしれない。

本当に、気にしなくていいという意味かもしれない。

でも、美月の体は勝手に読んだ。

返信しなくても、読んでいるよね。

分かっているよね。

気づいているよね。

美月はスマホを閉じた。

返信しなかった。

でも、返信しないことを選んだだけで、何も終わらなかった。

電車が来た。

美月は乗り込んだ。

窓に映った自分の顔は、いつもより少しぼやけていた。

気づけない人になりたい。

でも、その願いさえ、人に気づかれたくなかった。

第68話へ続く。


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